1614年の大坂冬の陣の後、家康は養子の松平忠明に大阪城の外濠、内濠の埋め立てを命じます。
松平忠明(家康の長女:亀姫の4男)は埋め立て奉行を務めました。その後、夏の陣にも参戦。↑大手門から入城します。
大坂の陣での功績により、大阪城には松平忠明が1615年に入封し、その後大和国郡山に移るまでの4年間城主として摂津国大坂藩を治めました。
その間、家康の命により戦災復興と城下の整備を行います。この時、運河の開削もされ道頓堀ができたといわれています。
↑西の丸から見た大阪城。家康が豊臣時代の西の丸に建てた天守台に現在の天守閣があります。
↑西の丸。西の丸は秀吉の正妻:北の政所(寧々)の御屋敷があったところ。
↑焔硝蔵(火薬を保管していた蔵)
その間、家康の命により戦災復興と城下の整備を行います。この時、運河の開削もされ道頓堀ができたといわれています。
↑西の丸から見た大阪城。家康が豊臣時代の西の丸に建てた天守台に現在の天守閣があります。
↑西の丸。西の丸は秀吉の正妻:北の政所(寧々)の御屋敷があったところ。
↑焔硝蔵(火薬を保管していた蔵)
江戸時代の幕府の軍事拠点として、大阪城には沢山の焔硝や武器、兵糧が備えられていたそうです。
忠明は入封後、家康の一周忌に川崎の地に東照宮を建立します。大阪の民の豊臣家への思慕を断ち切る目的もあったそうです。
↑桜門の前に鎮座する豊国神社。
忠明は入封後、家康の一周忌に川崎の地に東照宮を建立します。大阪の民の豊臣家への思慕を断ち切る目的もあったそうです。
↑桜門の前に鎮座する豊国神社。
江戸時代にはもちろん徳川家色の強い地で、幕府直轄の天領として、譜代大名が城代を務めます。しかし、明治維新というクーデターの後、明治天皇の御言葉により、「国家のために多大な功労を残した」秀吉を奉祀する豊国神社が創建され、大阪には明治13年に創立、大阪城内には昭和36年に遷座されました。