戦国の武蔵國忍城は成田氏の居城で、上杉謙信による城下への放火(1574年)や秀吉(1590年)に攻められても落城しなかった堅固なお城。
忍城は北に利根川、南に荒川と川に挟まれた扇状地で、自然堤防と沼地によって守られた自然要害であったそうです。↑御三階櫓。
お城への総攻撃が上手くいかず、三成は利根川を利用しての水攻めを計画。全長28㎞という石田堤を築きます。
予想に反して本丸は沈まず、『忍の浮城』や『亀城』との名を残しました。
最後まで陥落しなかった忍城ですが、小田原城が降伏開城したため開城となります。
その後、関東に移封された家康により、1592年に家康の4男 忠吉(12歳)が元服し忍藩10万石で入封します。江戸幕府開府後は、忠吉は尾張国清洲藩52万石へと転封され、その後は親藩や譜代が入封しています。
忠吉はイケメンの上、人望も厚い人格者であったようですが、28歳の若さで亡くなります。実子は生後16日で早逝しており、忠吉の没後は弟の義直が清洲藩主となっています。
↑忍城前には、忍東照宮がありました。
予想に反して本丸は沈まず、『忍の浮城』や『亀城』との名を残しました。
最後まで陥落しなかった忍城ですが、小田原城が降伏開城したため開城となります。
その後、関東に移封された家康により、1592年に家康の4男 忠吉(12歳)が元服し忍藩10万石で入封します。江戸幕府開府後は、忠吉は尾張国清洲藩52万石へと転封され、その後は親藩や譜代が入封しています。
忠吉はイケメンの上、人望も厚い人格者であったようですが、28歳の若さで亡くなります。実子は生後16日で早逝しており、忠吉の没後は弟の義直が清洲藩主となっています。
↑忍城前には、忍東照宮がありました。
忍東照宮は1617年に大坂城外の川崎に家康の長女 亀姫の4男 松平忠明(奥平松平家)により創建されたのが始まり。
弟の2代将軍秀忠から亀姫が貰い受けた家康の木像を御神体としたそうで、転封の度に遷座され、忍城内(埼玉古墳群のあたり)には1823年に勧請されています。
↑三つ葉葵紋。
弟の2代将軍秀忠から亀姫が貰い受けた家康の木像を御神体としたそうで、転封の度に遷座され、忍城内(埼玉古墳群のあたり)には1823年に勧請されています。
↑三つ葉葵紋。