戦国時代の四国は群雄割拠のとき。
↑徳島城鷲の門。1582年に土佐国の長宗我部元親が侵攻。讃岐、阿波、伊予を平定、四国を支配します。
信長に睨まれ、織田軍による四国への侵攻の危機を生じますが、本能寺の変により、回避。
しかし、秀吉の四国征伐により、長曾我部元親は土佐一国に減知されます。
四国征伐の武功により、蜂須賀小六正勝が阿波一国を勧められますが、小六は高齢だし秀吉の近くにいたいと希望。
そのため、同じく武功を挙げた小六の息子、家政に1585年に阿波一国18万石が与えられました。
家政は入封後すぐに、この地に平山城を築城し始め、翌年の1586年には完成させ、地名を渭津(いのつ)から徳島としました。
山城には本丸と東二の丸。平城には藩主の生活する御殿(表と奥)と西二の丸と三の丸が造られました。
秀吉、前田利家が亡くなると、石田三成と対立した蜂須賀家政。
関ヶ原の戦いでは、東軍にも西軍にも味方せず、阿波一国を豊臣家に返上して、西軍に城を明け渡し、自身は剃髪し出家します。
ただし、息子の至鎮(よししげ)を家康側へ参陣させています。
至鎮は秀吉が亡くなった後、1600年に家康の養女(小笠原秀政の娘)を嫁に迎えてました(至鎮15歳)。
徳島城は明治の廃城令により、建物は全て撤去。
徳島城に残る遺構は、石垣、庭園、濠。
↑もともとは本丸に天守があったようですが、破却された後(詳細不明)に天守の代わりの御三階櫓のあった東二の丸。
至鎮は藍の生産、塩田の開発に力を入れ、吉野川の治水事業の指揮も執り、家臣にも慕われた名君であったようです。
↑右に数寄屋橋。城の凶事にのみ使用された城の鬼門に位置する橋。
至鎮は藍の生産、塩田の開発に力を入れ、吉野川の治水事業の指揮も執り、家臣にも慕われた名君であったようです。
↑右に数寄屋橋。城の凶事にのみ使用された城の鬼門に位置する橋。