川越城は室町時代の1457年に太田道灌、道真が上杉持朝の命で築城したのが始まり。
足利氏と対立していた上杉氏は太田道灌親子に江戸城も築城させ、道灌を江戸城主に置きました。↑横から見た本丸御殿。
川越城、江戸城を軍事道路で結ぶことで、足利氏への防衛線を造ったとされます←今の川越街道。
1537年に北条氏綱により攻略された川越城ですが、1590年の小田原攻めにより北条氏が滅亡。
江戸城に家康が入城すると、徳川家の譜代、酒井重忠が1590年に河越城に入城したのを始め、徳川家の重臣が城主となっています。
↑川越城内にあった三芳野神社。参拝すると、頭上から『通りゃんせ』の音楽が流れます。
本丸から南方向に行くと富士見櫓跡があります。
本丸から南方向に行くと富士見櫓跡があります。
この高台に三重の櫓が建てられていたそうです。
↑徳川家と縁の深い川越大師、喜多院。
1599年に天海が、仏蔵院(後の喜多院)に入寺。1614年に家康によって伽藍の整備がされました。
↑客殿。1638年の川越大火で山門以外が消失すると、家光により、江戸城から客殿、書院、庫裏が移築されました。
↑徳川家と縁の深い川越大師、喜多院。
1599年に天海が、仏蔵院(後の喜多院)に入寺。1614年に家康によって伽藍の整備がされました。
↑客殿。1638年の川越大火で山門以外が消失すると、家光により、江戸城から客殿、書院、庫裏が移築されました。
↑↓喜多院の庭園。↑家光から寄贈された桜。
客殿は家光誕生の間といわれ、書院は春日局の化粧の間といわれています。
↑鐘楼門。1702年に再建されたもの。
↑随身門から仙波東照宮。
客殿は家光誕生の間といわれ、書院は春日局の化粧の間といわれています。
↑多宝塔。
↑五百羅漢。中央にお釈迦さま。↑鐘楼門。1702年に再建されたもの。
↑随身門から仙波東照宮。
翌年、天海は家康への感謝と遺柩止留の記しとして家康の像を作り、大堂に祀ったのが東照宮の始まりといわれます。