戦国時代、姫路城は小寺家重臣であった黒田官兵衛(孝高)の居城でした。秀吉に魅せられた官兵衛は秀吉にこの地、この城を明け渡します。まだ信長在命のとき、羽柴秀吉の頃。
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官兵衛は秀吉に姫路城への入城を勧め、毛利氏との戦いの拠点としました。秀吉は姫路で3年過ごします。
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関ヶ原の戦いの後は、池田輝政が播磨52万石で入城。池田輝政によって、今も残る連立式天守が築かれました。池田輝政は秀吉の勧めで、家康の次女:督姫と1594年に結婚しています。輝政29歳。
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↑天守下から、左の端まで白漆喰の土塀が続く。
池田輝政は織田家重臣の1人、池田恒興の次男。幼い頃から信長の近習として仕え、信長の死後は秀吉に。秀吉時代には豊臣家に次ぐ家柄として扱われていたそうです。
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↑菱の門と大天守。
秀吉の死後は、武断派といわれる福島正則、加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政らと行動を共にし、三成を襲撃したりした7将の1人。
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↑鳥瞰図。
輝政の妹は若御前といわれる豊臣秀次の正室。秀次の謀反の疑いによって、秀次の家臣、妻妾がみな粛清された中、助命された1人でした。
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↑連立式天守と土塀。
輝政の継室、督姫は北条家(氏直)に嫁いでいましたが、小田原征伐後、氏直が高野山で亡くなったため家康の元に戻っていたところ輝政と再婚。
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↑土塀内側。土塀には狭間が。
一方の輝政は糸姫(中川清秀の娘)と結婚後、4人の子を儲けていますが、糸姫が精神異常をきたしてしまったため、別居していました。督姫との再婚にあたって離縁しています。
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督姫は氏直との間に3人、輝政との間に7人の子を産んでいます。好色ともいわれる輝政との夫婦仲は良かったといわれています。
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池田家は一族で92万石の大大名となっていましたが、1613年に池田輝政は50歳で姫路城で亡くなります。『秀吉の呪い』ともいわれた急な死だったようです。今でいう脳出血や脳梗塞。
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池田家は嫡子が幼少のため、鳥取へ減封。1617年には徳川四天王の本田忠勝の長男 忠政が42歳で西国の押さえとして姫路城に入城します。
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忠政の嫡男 忠刻(21歳)とその妻、将軍秀忠の長女 千姫(20歳)も一緒に入城しています。
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千姫は家康の孫娘(秀忠と江姫の娘)。7歳で豊臣秀頼に輿入れしています。
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大阪夏の陣で、秀頼は自刃し千姫は助け出されます。江戸城へ向かう道中に警護にあたっていたのが、本田忠刻。千姫、忠刻に一目惚れ♡。忠刻は武術にも秀れたイケメンであったとのこと。
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↑姫路城と城下町。
千姫は忠刻と過ごした姫路城での生活が1番幸せだったと伝えられています。
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姫路城には千姫の利用していた化粧櫓があり、畳敷きのお部屋がありました。忠刻は31歳の若さで結核で亡くなり、千姫はその後、弟の家光の勧めで江戸に戻り、70歳で亡くなります。
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忠刻と千姫のひとり娘(嫡男は早逝)勝姫は池田光政(池田輝政の孫)と結婚。勝姫11歳、光政20歳のとき。勝姫は将軍秀忠の養女として輿入れしています。
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↑外にある現代の雪隠。
江戸時代は本田家始め、徳川の重臣が代々この地を治めました。
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↑菱の門全体。大きな門です。