唐津城は文禄の役後の1595年に、秀吉から褒賞として、この地を与えられた寺沢広高によって築城されました。
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↑唐津城。
本格的に築城されたのは、関ヶ原後の1602年から1608年にかけて。
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秀吉亡き後、廃城となっていた名護屋城の遺材を利用し九州各地の大名の力を借りて築城されたといわれています。
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大名たちを疲弊させた文禄・慶長の役。褒賞を受けた大名は数える程度で、負担を強いられ更に功績をあげない咎を受け、減知もしくは領土没収となった大名が多くいました。
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同時に文禄・慶長検知が行われ、大名家臣の土地を太閤蔵入り地として、功績をあげた大名に加増することも行われます。
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その検地を行なったのが、石田三成を中心とした奉行衆。関ヶ原の戦いを齎(もたら)す要因となりました。寺沢広高も長崎奉行を任され、武断派に睨まれます。
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父と共に秀吉に仕えていた広高でしたが、秀吉亡き後は家康に近づき、関ヶ原では東軍についたため、関ヶ原後も領土は安置。さらに天草領を加増されています。
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↑唐津湾。
広高により、城のある満島山を切り離すように松浦川の流路が変更され、防風林として虹の松原が育成されました。
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↑鳶と天守♡ピ〜ヒョロロ〜。
広高は江戸から戻ると、領地を視察し水害や日照りに備え、自身は倹約し優秀な家臣を召し抱えるために財を使ったそうです。
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↑天守台は経年のため、膨張してしまい、お直し中でした。
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↑満島山と虹の松原とで、鶴が羽を広げた姿に見えることから、舞鶴城ともいわれます。
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↑唐津城歴代城主の家紋たち。
寺沢広高の息子、堅高は島原の乱の責任を問われ天草領を没収、改易となり江戸で自害し、寺沢氏は断絶します。
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寺沢氏後は譜代大名が、入封しています。
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↑二の丸御殿のあった場所は学校敷地となっています。
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↑松浦川。