ずっと行ってみたかった肥前名護屋城趾。夜は雨でしたが、晴れてます。
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まずは、博物館から。韓国人がよく訪れるのか、韓国語の表示が。
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↑名護屋城と各地大名たちの陣跡の地図。
名護屋城は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のための軍事基地として、秀吉が1591年10月に城普請を始め、僅か5ヶ月で築城。もともと1000人あまりしか居住していない寒村だった当時の肥前名護屋。諸大名に出陣命令を下した1592年1月からは大名たちの陣屋が急ピッチで建設されます。
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↑慶長2年(1597年)の蔚山城の攻防戦の図。
加藤清正、浅井幸長らが蔚山城に籠城(籠城兵1万人)し、明・朝鮮連同軍4〜5万人が取り囲むの図。この後、釜山に布陣していた鍋島直茂らの援軍到着により連合軍は敗退しています。
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↑日本側の軍船。
第1陣の小西行長らが釜山に出陣したのは、1592年4月。秀吉が名護屋城に着陣する前でした。
日本軍は制圧した釜山(プサン)・蔚山(ウルサン)・順天(スンチョン)・梁山(ヤンサン)に倭城を築いていきます。
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↑名護屋城模型。
文禄・慶長の役は1592-1593年、1597-1598年の6年に渡り、秀吉が亡くなった1598年に名護屋城は廃城となります。この間、渡韓組16万人、残留組10万人、20〜30万人が名護屋の地に集結していました。しかも、大名当主が挙って。
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↑博物館裏に、木下延俊(秀吉正室ねねの甥)の陣屋趾。名護屋城の大手口の前面に位置し、防御面からも重要な場所であったようです。
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いよいよ名護屋城へ。
廃城となった後、名護屋城大手門は1602年に仙台青葉城に運ばれ、移築されたともいわれています。
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↑建物はなく石垣のみですが、島原の乱や1614年の一国一城令により、破却され崩された石垣がそのまま遺っています。
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↑大手口から三の丸へ向かいます。
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↑三の丸趾。
秀吉の御伽衆300人も一緒に名護屋城に入城。
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↑さらに進み本丸へと向かいます。
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↑名護屋城本丸趾。
足掛け6年。秀吉は名護屋城で能を学んだり、茶を嗜んだり、大名たちが朝鮮で食糧不足に困っている中、優雅な生活をしてます。
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↑本丸趾。右端から、木の辺りが天守趾。
朝鮮出兵の間に、伏見城の築城も指示したりと内にも外にも目を配ってたとも言える…。因みに、真田信繁は伏見城の築城のため、名護屋から離れて期間中は戻らなかったとのこと。
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↑  天守趾。
肥前名護屋城天守は5層7階(地下1階)の建物でした。海風で、暑いんですが涼しいです。
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↑柵などなく、押されたら、そのまま落ちていきます。
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↑天守趾からの眺め。
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↑下には二の丸が見えます。
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↑水手曲輪の辺り。
雨水を貯め、人の手で運んでいたとのこと。水の確保が困難だったようです。
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↑家康本陣趾。
当時の家康は江戸242万石の大大大名。本陣には家康自身が在陣。
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↑↓前田利家の本陣趾。道の駅になっています。
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伊達家の日記帳『伊達日記(?)』に、家康と利家の家臣団による水争いがあり、家康と利家の陣屋を名護屋城の近くに移したとの記述があるようです。
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名護屋橋を渡ります。対岸の緑が鬱蒼としてる一帯が家康別陣の跡地。
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↑政宗陣跡の表示。
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↑↓政宗の陣跡は民家と林。政宗の陣営は1500人。政宗たちは、渡韓組。
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半年間朝鮮で、風土病や食糧不足に悩まされます。だけど、女の子連れてきたり、梅を持って帰ったり。戦をしてても、母の義姫にお手紙も書いてました。
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↑政宗陣跡から10分くらい歩くと、家康別陣趾。
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↑この辺全部、家康別陣。別陣には家康の家臣団が在陣しました。軍役は15000人。譜代大名の大久保忠世と本田忠勝は家康本陣の北に陣跡があるようなので、その他の家臣団の陣屋となります。
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↑印の所には、法光寺があります。もともとは名護屋城博物館の辺りにあったようですが、名護屋城築城に当たって、現在の位置に移転されます。そのお詫びにと、政宗に塩竈から桜の木を持って来させ、秀吉がお手植えしたと伝えられているそうです。