伊予国 宇和島藩の初代当主となったのは、政宗の長男秀宗。秀宗は1591年に側室の飯坂氏を母に生まれました。
↑ライトアップされた宇和島城。まだ、正室愛姫との間には子がなく、秀宗は政宗の後継者として育てられます。
秀宗は3才で秀吉の元に人質として差し出され、秀吉の元で5才で元服もし、猶子として『秀宗』の名をもらいます。時は秀吉の天下の時代。
秀宗は3才で秀吉の元に人質として差し出され、秀吉の元で5才で元服もし、猶子として『秀宗』の名をもらいます。時は秀吉の天下の時代。
1600年(秀宗9才)に正室愛姫に忠宗が生まれ、関ヶ原の戦いで家康が勝ったことから秀宗の立場は揺らぎます。1602年(秀宗11才)に江戸に入った秀宗は、徳川の人質となり、1609年(秀宗18才)に家康の命により、徳川四天王の井伊直政の娘と結婚。あれ?順調っぽい?
2年前の1607年に忠宗(7才)はその年に誕生した家康の娘との婚約が成立していましたが、姫さまが早逝したため、1610年に池田輝政の娘(家康の孫娘:家康次女の督姫の娘)が、将軍秀忠の養女として忠宗に嫁いでいます。
忠宗は1611年に江戸城で元服、将軍秀忠の一字を貰い、松平姓も与えられています。
1614年(秀宗23才)大阪の陣での功績から、政宗には伊予宇和島10万石が与えられます。政宗は跡取りとして育てられながら、跡取りとはなれない秀宗に別家として、伊予宇和島を与えました。
↑本丸への道。
2年前の1607年に忠宗(7才)はその年に誕生した家康の娘との婚約が成立していましたが、姫さまが早逝したため、1610年に池田輝政の娘(家康の孫娘:家康次女の督姫の娘)が、将軍秀忠の養女として忠宗に嫁いでいます。
忠宗は1611年に江戸城で元服、将軍秀忠の一字を貰い、松平姓も与えられています。
1614年(秀宗23才)大阪の陣での功績から、政宗には伊予宇和島10万石が与えられます。政宗は跡取りとして育てられながら、跡取りとはなれない秀宗に別家として、伊予宇和島を与えました。
秀宗を当主に伊予宇和島伊達家が誕生します。仙台伊達家家中から、政宗自身が宇和島へ行く家臣を選んだといいます。
宇和島城の縄張りは1595年に入城した藤堂高虎によるものですが、天守は今とは異なる形でした。↑本丸への道。
本丸に上がるには、なだらかな坂道とそこそこな石段がありますが、江戸時代には石段が正規の登城路であったそうなので、そちらから。
現在の宇和島城天守は宇和島伊達家2代目宗利によって1662〜1671年にかけ修復、創建されました。狭間や石落しはないものの、窓の下には鉄砲掛けが設置されているそうです。
↑政宗から秀宗へ送られたお手紙。藩主としての心得を説いたものです。
宇和島には、政宗の家臣の山家公頼がお目付役として配任されていましたが、若い秀宗にとっては政宗に逐一報告されるのは鬱陶しかったかもしれません。
口煩い政宗にも、反抗したいお年頃な秀宗は、家臣たちの対立で山家一家が殺されてしまった事を政宗に報告しませんでした。
↑二の丸と宇和島湾。
↑政宗から秀宗へ送られたお手紙。藩主としての心得を説いたものです。
宇和島には、政宗の家臣の山家公頼がお目付役として配任されていましたが、若い秀宗にとっては政宗に逐一報告されるのは鬱陶しかったかもしれません。
口煩い政宗にも、反抗したいお年頃な秀宗は、家臣たちの対立で山家一家が殺されてしまった事を政宗に報告しませんでした。
↑二の丸と宇和島湾。
その事が政宗の逆鱗に触れ、秀宗を勘当とし、老中土井利勝に宇和島の返上を申し出ます。
初めての愛媛、そして宇和島。
土井利勝の取りなしで、秀宗と政宗は話し合いを持ち、秀宗が抱いていた怒りを政宗が受け止めたことから、関係は修復されたといいます。
その後は筆まめな政宗なので、ちょくちょくお手紙書かれてます。初めての愛媛、そして宇和島。