関ヶ原の戦いで親正は西軍、息子の一正が東軍で参戦。東軍であった一正に家督が譲られ、一正が初代高松藩主となっています。
↑高松城は海水を外濠、中濠、内濠に引き込んだ平城です。城内から海も見えます。
↑上から見た高松城。右中央に天守台、左中央に水手御門が見えます。そして右側奥、たぶん大雨です。
↑↓今は石垣の外は道路になっていますが、往時は水手御門の扉を開けると海で、城内に軍船が直接出入りできるようになっていました。縄張りは黒田孝高(よしたか)によるものともいわれています。海城は水攻めや水断ちといった攻城手段が使えず、戦争時の篭城時には物資の搬入や、脱出も可能でした。
1640年に生駒騒動というお家騒動があり、生駒氏は1万石に減らされたうえ、転封。
1642年に松平頼重が12万石で入封となります。
↑月見櫓 当主の到着を見たり、敵の襲来を見たり、見張りの役割があった櫓です。
頼重は松平頼房(家康の11男:水戸徳川家初代)の長男で、水戸光圀(黄門様)の実の兄。家康の孫。
↑飛雲閣。
頼重は長男でしたが、次男の光圀とも頼房に内緒で出産、江戸と京で別々に育てられていました。光圀のほうが頼房に認知されたのが先で、嫡男の立場も光圀にありました。扱いも次男。そのため、水戸徳川家の継承はできなかったようです。ただし、兄弟仲は悪くなかったようで、頼重の実子は光圀の養子となり、水戸藩を。光圀の実子は頼重の養子となり、讃岐を継承します。歪みを戻した感じでしょうか?
父の頼房は家康に格段可愛がられた11男、1603年生まれ。3才で下妻に3万石、6才で水戸25万石を賜ってます。
↑廊下橋。
平城の高松城。城外に結構大きな建物があるので、お城感が…。
高松には家康を祀る東照宮も残っています。さすが、親藩の国。
屋島までは電車で。↑山を目指します。
↑麓につくと、鳥居が。
1651年に初代藩主の頼重が、宮脇村(現在の栗林公園近辺か?)に東照大神の神廟を建立したのが讃岐東照宮の始まりです。
↑讃岐東照宮の看板。
1804年に8代目藩主の頼儀が屋島へ社殿の造営を着手し、1815年に完成したとのこと。
火災により、本殿と拝殿は1973年に全焼しましたが、↑神門は火災を免れます。