小田原は提灯が風船みたいに浮いてました。↓
北条早雲(北条氏初代)が小田原城に侵攻したのが、1493年。2代目氏綱の時に、北条氏の本拠地は小田原へと変わります。北条氏は輝宗の頃に、伊達家との親交が取り決められていました。なので、北条は小田原攻めの時、伊達家が共に秀吉に対抗してくれるかも…と思ったかもしれません。
↑馬出門①
1580年に信長への従属を決めた氏政は、息子の氏直と信長の娘を結婚させ、家督を氏直に譲ります。本能寺の変後、信長からの処遇を不服に思っていた氏政は家康と甲斐で対峙(天正壬午の乱)、和睦したのち氏直は家康の娘の督姫を妻に迎えます。
氏直の母は武田信玄の娘の黄梅院。戦国時代の姻戚関係って凄いですね…。
家康と姻戚となった北条は、秀吉への服属を表していましたが、離反。1584年に沼尻の戦いで勝利したことで、秀吉に敵として位置付けされることになります。
1585年に家康との同盟を強化するものの、家康は1586年に秀吉に臣従します。家康の働きもあってか、1588年に秀吉と和睦へと進みますが1589年に名胡桃城事件が起こったことで、私戦の禁止を破った北条氏に対し、秀吉は宣戦布告、諸大名に出陣要請をしました。
決戦に備え、城と城下を囲んだ濠と土塁を構築。戦いの際には領民を曲輪内に入れ、籠城戦に臨めるようになっていたようです。
小田原城攻めの際には、すでに秀吉は関白となっていたため、戦により領民を危険に晒すわけにもいかず、籠城戦を取らず、降伏開城となりました。降伏した北条氏。氏政は切腹、家康の婿の氏直は温情で高野山に蟄居となるものの、疱瘡で30才の若さで亡くなります。
北条氏が降伏した後は、徳川家譜代大名の大久保忠世が入城しますが、養女を秀忠の許可なく結婚させたことで、改易となり、その後は家光の側近の稲葉正勝(春日局の息子)が入城することになります。
家康と姻戚となった北条は、秀吉への服属を表していましたが、離反。1584年に沼尻の戦いで勝利したことで、秀吉に敵として位置付けされることになります。
1585年に家康との同盟を強化するものの、家康は1586年に秀吉に臣従します。家康の働きもあってか、1588年に秀吉と和睦へと進みますが1589年に名胡桃城事件が起こったことで、私戦の禁止を破った北条氏に対し、秀吉は宣戦布告、諸大名に出陣要請をしました。
↑常盤木門③
和睦を進めながらも、秀吉との関係は緊張状態であったため、北条氏は1587年に小田原城の大普請をしています。決戦に備え、城と城下を囲んだ濠と土塁を構築。戦いの際には領民を曲輪内に入れ、籠城戦に臨めるようになっていたようです。
小田原城攻めの際には、すでに秀吉は関白となっていたため、戦により領民を危険に晒すわけにもいかず、籠城戦を取らず、降伏開城となりました。降伏した北条氏。氏政は切腹、家康の婿の氏直は温情で高野山に蟄居となるものの、疱瘡で30才の若さで亡くなります。
北条氏が降伏した後は、徳川家譜代大名の大久保忠世が入城しますが、養女を秀忠の許可なく結婚させたことで、改易となり、その後は家光の側近の稲葉正勝(春日局の息子)が入城することになります。
家光の御成りに備え、小田原城の本丸には、徳川家専用の本丸御殿が造設されています。御成りの際には、①②③を通って本丸へ向かったようです。
天守からの眺め。↑海近くまで、城を中心に約9㎞の範囲を堀と土塁で囲われていました。難攻不落の城と名を轟かせ、後々の城郭に取り入れられた総構えといわれる城郭構造です。
天守からの眺め。↑海近くまで、城を中心に約9㎞の範囲を堀と土塁で囲われていました。難攻不落の城と名を轟かせ、後々の城郭に取り入れられた総構えといわれる城郭構造です。
小田原城攻めの際、秀吉は淀殿、千利休なども小田原に呼び長期戦に備えます。戦うのは、集めた大名たちなので、楽しんでたようにも感じます。←性格悪っ