信長の3番目の居城の清洲城。天下布武に向け、その居城を次々変えていった信長。
清洲城は模擬天守ですが、中は子供でも興味を唆られる展示物が多いように思われます。結構お勧めです。1555年に叔父の信光と共同して清洲織田家から奪取したお城で、尾張平定の中心となったと言われます。
入城は信長22才のとき、小牧城に移るまでの8年間をここで過ごします。
↑右大臣織田信長公古城跡の碑。
ここ清洲城から信長は桶狭間の戦いに出陣し、家康との清洲同盟を結び、信長が亡くなった本能寺の変後の清洲会議もここで開かれました。
本能寺の変後は、信長の次男、信雄(のぶかつ)が城主となりました。関ヶ原後は徳川家が城主となりましたが、その後、名古屋城に遷府となり廃城に至ります。
↑↓小牧城。清洲の後、信長の岐阜への侵攻のために要害として築城されたとされます。
↑今ある小牧城は聚楽第の飛雲閣をモデルに建てられた模擬天守ですが、信長の築城した小牧城は、それまでの戦国大名が建てたお城とは違う、見せるためのお城であったようです。
↑小高い山に建てられたのも、安土城と似ていて、城下町も整備されていたようです。美濃攻め後、稲葉山城に入城し、岐阜城と改名し、居城を移したため、自然廃城となりましたが、小牧長久手の戦いのときに、家康により陣城として改築されます。
織田家で人質として幼少期を送った家康。なんとなく、信長に可愛がられてたような気がしてならない。憶測ですが…
↓岐阜城。こちらは復元天守。っていっても、姿形は全く違うものだそうです。
信長の居館は麓の千畳敷というところにあった御殿式の建物で、宣教師フロイスによると、『4階建てで、1階には15〜20の座敷があって、2階に信長や奥方、侍女の部屋。庭は5、6個あり…』というような御屋敷だったらしいです。
本能寺の変後は、信長の次男、信雄(のぶかつ)が城主となりました。関ヶ原後は徳川家が城主となりましたが、その後、名古屋城に遷府となり廃城に至ります。
↑↓小牧城。清洲の後、信長の岐阜への侵攻のために要害として築城されたとされます。
↑今ある小牧城は聚楽第の飛雲閣をモデルに建てられた模擬天守ですが、信長の築城した小牧城は、それまでの戦国大名が建てたお城とは違う、見せるためのお城であったようです。
↑小高い山に建てられたのも、安土城と似ていて、城下町も整備されていたようです。美濃攻め後、稲葉山城に入城し、岐阜城と改名し、居城を移したため、自然廃城となりましたが、小牧長久手の戦いのときに、家康により陣城として改築されます。
織田家で人質として幼少期を送った家康。なんとなく、信長に可愛がられてたような気がしてならない。憶測ですが…
↓岐阜城。こちらは復元天守。っていっても、姿形は全く違うものだそうです。
信長の居館は麓の千畳敷というところにあった御殿式の建物で、宣教師フロイスによると、『4階建てで、1階には15〜20の座敷があって、2階に信長や奥方、侍女の部屋。庭は5、6個あり…』というような御屋敷だったらしいです。