1598年(政宗32歳)に秀吉が亡くなると、家康と政宗は一層親密な関係となりました。
政宗の長女の五郎八姫と家康の6男の忠輝とが婚約したのが、翌1599年の正月。五郎八姫はまだ5歳、忠輝もまだ7歳。その後、忠輝は大坂夏の陣への遅参などで改易となり、五郎八姫とも離縁となりました。↑大手門。
政宗は将軍との謁見の際、大広間で順番を待ったといわれています。
1632年、2代将軍秀忠の病床に招かれ、家光のことを頼まれたのも江戸城でした。政宗65歳。
↑駿府城本丸跡に家康像。
1636年政宗が病床に伏した時には、政宗のもとを家光が見舞います。そして忠宗に「かつて家康が秀忠を、秀忠は家光を政宗に託した。いま、政宗からその方(忠宗)のことを託された。引き受けたので、看病に専念するように」と話します。
政宗以外の人が亡くなったときの様子は調べてないのでわかりませんが、幕府が江戸市中に7日間の魚鳥の肉食と音曲を禁止し弔意を表したそうです。