家康が神田山を切り崩させ、日比谷を埋め立てたことにより、平川の下流では洪水が頻発したため、徳川幕府は今の飯田橋付近から隅田川に通じる水路の確保と江戸城の外堀ともなる神田川の開削を命じます。
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仙台藩政宗は飯田橋の牛込橋あたりから、秋葉原駅近くの和泉橋辺りまでを請け負います。政宗36歳頃。
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飯田橋から、秋葉原を目指します。
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近代になり、都市開発がされ、外堀の上に建物が立ち並ぶんですが、
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↑その下にはちゃんと水路があります。
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首都高の下に外堀が。
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ほとんど流れのない淀んだ川ですが…
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水道橋から御茶ノ水に行く途中に、
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神田上水の碑があります。
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↑万治の比(1660年) 仙臺候…と書いてあります。4代藩主綱村の頃ですが、当初の川幅が狭かったので、川幅を広げる指示を受けたのが綱村でした。
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神田山を切り開くのは難航したといわれています。
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それでも今でも残る仕事をしたのには驚きです。
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江戸時代から現代にちゃんと繋がっているんですね。
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やっと和泉橋まで辿りつきました。橋の反対側の木の下では現代のサムライたちが一服してます。
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江戸城普請は徳川3代にわたり、1636年まで33年もかかって行われました。

政宗が家康に「江戸城を何処から攻めるか?」と聞かれて「神田山から大砲を撃ちまする」と答えたばっかりに…^ ^↑に戻る。諸説あります。