毎月開催されます、山本先生による歴史講座は、12月の講座で今年最後となりました。


今年の講座内容は、愛知学院大学・林淳教授による【日本近世・近代の宗教史】を基に、徳川幕府が推し進めた宗教政策から、明治期の廃仏毀釈に至るまでの流れを追ってまいりました。

先生の講義内容は、本分の修験道研究へと話しが流れるコトが多い為、私のようなニワカ行者にとっては大変有意義な時間でもあります。

山本先生との出会いは、住職からの紹介で歴史資料館へと訪れた際、ちょうど企画展示の準備を行なっている最中でして、ピリピリとした緊張感に包まれた中へ場違いな存在が突如として現れた為、私はいい知れない険悪な雰囲気をヒシヒシと感じてしまいました。

また、歴史講座へ参加する際にも、当初は積極的では御座いませんでしたが、先輩である長楽寺の吉田真譽さんより「先生は、いつまでも静岡にいないのよ!この機会を逃したら、貴方は絶対に後悔するわ」などと説得された為に参加を決意致しました。

孔子は【巧言令色鮮ナシ仁】(巧みな言葉や姿で魅了されても、そういう存在には真の仁者はいない)などと申しましたが、人生の決断に於いて、正しい方向へと進む時には、必ず最初のイメージが悪かったり、瞬時に断る理由を考えている場面にこそ、本来とるべき正しい選択だったりする場合が御座います。

反対に【コレこそは!】だとか【この人こそ!】などと、強く思い込んで行動すると、案外ロクな結果をもたらさない事例が多いようにも感じられます。

人間は、固定概念という、枠組みの中でしか物事を考えられない生き物です。

その為、その枠組みから外れた存在に対しては、拒絶したり攻撃性を持つ性質が多分に御座います。

しかし、真理とは、常に自分自身の枠組みから、大きく外れた境地にある訳でして、自身が嫌いだと感じている心の中へ本当の答えがあるように思えるのですね。

よく【若いウチの苦労は買ってでもしろ】などと申しますが、しかし私は、何でもかんでも、苦難を背負う様な行動が正しい判断だとは思えないのです。

例えば、性的虐待を受けた女性が、また同じ様な男性と関わりを持つケースを【反復強迫願望】などと呼ばれ、こうした症状へと至る精神疾患を【強迫神経症】などと申します。


つまり、仏道修行へ例えるのなら、苦しみの訳を探るのではなく、苦しみを耐え続けるコトこそが【正しい】のだと、そこへ一種の快感を求めてしまいますと、意味のない罰ゲームを永遠と繰り返してゆくコトとなる訳です。

こうした【正しさ】へ執着するコトは、仏教では正しくないとされておりますが、中道を説いたお釈迦様は、自身が正しいと思った時点で、それは正しくないコトと説かれた訳です。


ハーバード大学のサンデル教授は、一卵性双生児である双子に対して、一方は裕福な家庭へ預けて、もう一方は貧しい家庭へと預けたうえで、それぞれにバイオリンのレッスンを行ったそうなのですね。

すると、普通なら、恵まれた裕福な家庭に育った方が、バイオリンの上達速度が早いと考えがちですが、しかし結果は、お互い同じ上達レベルだったそうです。

それは、貧富の差や、自身が置かれた状況下に於いても、人それぞれが取り組む努力の差は同じだと言うのです。

つまり、努力出来る人とは、それは人それぞれの才能であって、努力出来ない人に対して、努力するコトで成功を収めた一握りの経営者が差別しているのだと申すのです。

サンデル教授は、現在のアメリカ社会に於いて、1番の差別とは、人種差別でもなく、男女差別でもなく、ジェンダー平等でもなく、それは一握りのエリート(ビッグ・テック=Google・Amazon・Apple・facebookなどの巨大企業)による努力の強要だと述べるのですね。

【周りが出来て、私も努力して出来たのだから、アナタも出来て当然だ!】

こんな言葉を口にしたり、された経験は御座いませんでしょうか?

差別という言葉は、実は仏教用語でしてね、本来は多様性を意味する差別性(しゃべつせい)から来ております。

毎月、財賀寺で行われる、朝勤の会へ誘ってくださった西本全秀さんは【新聞記事は、誰が何度読んだとしても、同じ内容しか書かれておりません。

しかし、経済学者のアダム・スミスが記した国富論は、何度読んでも新たな発見や気付きがありますね】などと申されました。

仏教に於ける差別性とは、同じコトを繰り返している様で、実は人間としての深みとでも申しましょうか?角が取れて、雑味が無くなる様なモノだと思われます。

さて、朝勤の会で、必ずお唱えします般若理趣経には、何度も【清浄】という言葉が出てきます。

清浄とは、余分な部分を取り除く意味が御座いますが、同じコトを繰り返す中で、西本住職さんの様に、毎回あらたな学びや気付きを得る為には、そこから何かを得ようとする姿勢があってこそなんですね。


聖宝尊師が説く【理智不二】(りちふに)という言葉には、大乗仏教が説く、誰の心にも仏性が備わっている平等性と、その仏性を顕現させる為の仏道修行へ励む姿勢(差別性)を表しております。

理智不二の心とは、日々の生活に於いて、謙虚な姿勢を重ねた時間軸に存在するのかもしれません。