2023年1月21日、磐田市ふれあい交流センターにて、宗教学者の山本義孝先生による歴史講座【神と仏が融合した中世宗教の世界〜その成立とネットワーク〜】が開催されました。

山本先生とは、去年の7月13日、先生が館長を勤めます袋井市歴史文化館へと訪れた際、地元の修験道に関する見解をご教示頂いたのがきっかけでした。

今回の講座では、12〜13世紀にかけて、神仏融合という、日本人が新たな信仰形態へと至った流れについて、世界の気候変動や政治情勢を基にした非常に説得力のある内容でした。

さて、2022年12月10日、ある新興宗教による被害者救済法が国会で成立致しましたが、元来、【宗教】(religion)という言葉は、明治期以降に西洋からもたらされた一神教の概念でして、古来日本人にとって、その様な宗教観など持ち合わせておりませんでした。

では、日本人が抱く宗教観とは、どの様な捉え方をなされていたのでしょうか?

例えば、私達は、元日ともなれば、地域の氏神様を祀る神社へと訪れ、例大祭の季節には、地区の人々が社殿へと集まり、お神輿や屋台を担ぐ光景をよく目に致します。

しかし、神社へ参拝する方や、お祭りに参加する人々の全てが、神社の氏子さんなのでしょうか?

更に言えば、その神社へ祀られている祀神が、一体誰なのか皆さんご存知じなのでしょうか?

他にも、葬儀の際には、檀家寺から住職さんを呼び寄せて、お盆の時期には、自宅へと僧侶を招き入れて、法要を執り行うかと思われます。

しかし、皆さんは、ご自身の宗旨や開祖の名前、または、お釈迦様がお説きになられた仏教の教えをご存知なのでしょうか?

他にも、1月7日の【人日】(じんじつ)に七草粥を食べて、3月3日の【上巳】(じょうし)に雛人形を飾り、5月5日の【端午】(たんご)に鯉のぼりを揚げ、7月7日の【七夕】(たなばた)には竹笹へ短冊を飾り付け、9月9日の【重陽】(ちょうよう)には菊酒を飲む五節句とは、もともと中国の道教に於ける祭事なんですね。

では、皆さんは、コレらの祭事を執り行う道教の方士なのでしょうか?

また、日本では、家督を長男が継ぎ、建前と本音といった使い分けをして、先輩後輩など、年長者を立てる行為を普通に見受けられますが、コレらは、中国の儒教に於ける孔子(こうし)の教えなんですね。

では、皆さんは、自宅に孔子の霊廟を祀り、孔子の教えである【五経】(ごけい)を開いたコトが御座いますでしょうか?

例えば、世界の宗教を俯瞰してみますと、西洋のキリスト教徒は、日曜日には教会で礼拝を行い、中東のイスラム教徒は、決まった時刻に1日5回もの礼拝を行い、イスラエルのユダヤ教徒は、613もの厳格な戒律を守らなければなりません。

そうしますと、日本人の宗教観とは、形骸化された祭事を無自覚に行なっているだけで、全く信仰心のカケラもない民族だと私は思っておりました。

しかし、世界第3位のGDPを誇り、識字率が国民のほぼ100%に達しており、国土のおよそ7割を森林に囲まれた国は世界にも類を見ません。

さて、NHK 放送文化研究所の調査によりますと、日本人のおよそ7割もの方が【無宗教】だと答えたそうですが、何故に日本人は、無宗教などと言いながら、一定の民度が保たれているのでしょうか?

そこには、日本人が築き上げてきた、独特な宗教観によるのだと私は考えております。

日本人の宗教観とは、様々な宗教の良いトコ取りをした結果、もはや一つの宗教で括るのではなく、生き方そのものへと組み込まれているように私は感じるのです。

つまり、決まった時間に礼拝しなくても、教祖様の教えが記された経典を開かなくても、自分達の生活スタイルや文化そのものとして既に根付いている訳です。

例えば、仏教の教えに従う生き方を仏道と申します。

他にも、日本の神道や修験道・陰陽道など、最後に【道】といった文字で表されております。

この【道】とは、何も信仰だけに限った言葉ではなく、茶道・華道・書道・武道など、文化芸能に至る様々なジャンルへ表されており、更に個人的な趣味や遊びに対しても【道楽】という、楽しむ道があるなどと日本人は捉えているのです。

この【道】とは、中国の道教で説く【道=タオ】に起源があり、そこには、一つの物事を極めてゆく過程に対して、自身の人生へと置き換えた言葉だといえましょう。

さて、この【道】という、物事を極めようとする概念に対して、何処に日本人の宗教観へと結びつくのでしょうか?

例えば、茶道に於いて、お茶を作るコトを【お茶を立てる】と申します。

他にも、花道に於いて、花を生けるコトを【立花】と申します。

また、武道に於いて、試合を行うコトを【立会い】などと申しますが、そこには、何故か【立つ】という言葉が使われております。

山本先生によりますと、この【立つ】という言葉には、日本の神道へ起源があり、神楽などの神事に於いて、神が降り立つコトを意味するのだそうです。

では、一体どの様な時に神様が降り立つのでしょうか?

それは、一切の雑念を捨てて、一つの物事に集中する行為を仏教では【三昧】(さんまい)と申します。

この三昧という言葉には【贅沢三昧】とか【読書三昧・釣り三昧】などと、一般的に良い言葉としては受け取られておりませんが、本来、仏教では、我と仏とが一体となった悟りの境地を表しております。

因みに、仏教の仏とは、心を表しており、神道の神とは、魂を表しておりまして、心や魂といった目に見えない精神性を高めるコトで、そこへ人智を超えた境地があるのだと信じられたのです。

つまり、日本人は、自分の一生をかけて、一つの物事へ取り組む姿勢に神仏が宿るなどと考えた訳なんですね。

さて、信仰の対象である神仏とは、即ち敬う対象そのものでもありまして、それは同時に人を敬う心を養い、魂という精神性を磨く行為へと繋がるのではないでしょうか?

そうした、志(求道心)を持った生き方にこそ、日本人は【道】といった宗教観を抱いたのだと考えられます。

フランスの社会人類学者、クロード・レヴィストロース(1908~2009年)は【日本人は職業にまで神を据えおく民族である】と述べられました。

それは、農業・漁業・林業・商業・工業など、それぞれに専門の神様が存在しており、会社の事務所や工場にも神棚を祀る光景は珍しくありません。

しかし、自分の趣味や仕事に没頭するあまり、世間の人々へ迷惑をかけ、家庭を顧みずに物事へ囚われ、自分の身体を壊してまで没頭する行為は【道】では御座いません。

仏教では、それらを【三輪清浄】(さんりんしょうじょう)と申しまして、布施を行う者・それを受け取る者・布施される物の三者へ執着や作為を持たないコトを理想とします。

そもそも道とは、人々が存在するからこそ、その場所へ道がある訳でして、廃村ともなれば、道路はたちまち草木や土砂で塞がれてしまうコトでしょう。

人間という言葉にも、人の間などと表されますように1人では生きられない存在なんですね。

ですから、新興宗教に盲信して、家族が悲しむ行為とか、迷惑動画を投稿したコトで、家族や多くの人々を悲しませる行為に対して、私は【道】など存在しないと思うのです。

かつて、日本人は【世間様に迷惑をかけるなよ!】だとか【他人を誤魔化しても、お天道様はちゃんと見ているんだからね!】などと、社会性を何より重視してきた民族なんですね。

しかし、今の時代は【個人の自由】だとか【多様性を認める社会】などと、個人の為に社会が存在しているなどと、全く正反対な捉え方をしている訳です。

昨今、飲食店での、若者によるトラブルが社会問題化されておりますが、そんな中、あるネット記事によりますと、当時、女子高生だった岡嶋陽謌さんは、バイト先だったスーパーの商品にネイルの除光液をつけるなどの行為をインスタグラムへ投稿させて炎上した。



その後、陽謌さんの名前・住所・学校名が特定された為、本人は退学を余儀なくされた。

陽謌さんの母親は、精神が不安定になって昨年夏に自殺した。

父親は、大手商社の課長職であったが、退職を促された為に今も損害賠償を支払続けている。

陽謌さんは、病院で躁鬱病と診断されたが、薬を買うお金もない為に自宅で引きこもっていたが、19歳になった今年1月、県内の仙里ダム湖に飛び降り自殺を図ったことが、監視カメラの分析により警察の捜査で判明された(Yahoo ニュース、2023年2月1日18:25配信)などと報道されました。

今の世の中は、自身の承認欲求を満たす為、軽率な行動をネットに投稿しますと、後で予想もしない事態へと発展する恐ろしい時代なんですね。

ですから、インターネットを利用する全ての人々が【生きるとは何なのか?】【社会や文化とは何のために存在しているのか?】などと、極めて宗教的な課題へと向き合って行く必要性があると私は考えております。

さて、私達は、この世に生を受けた瞬間から人間と呼べるのでしょうか?

そうではありません。

私達は、自身の一生をかけて、社会や人々と関わるコトで、自ら人間になる為の努力を続けて生きるのです。

では、私達は、日本で生まれたのなら、全員日本人と呼べるのでしょうか?

それも違います。

日本人とは、日本の文化へ触れるコトで、日本人というアイデンティティを自ら培ってゆく過程にある訳です。

つまり、それこそが、日本人の宗教観である【道】なんですよ。

道を歩むとは、【行】(修行)であって、【業】(職業)ではありません。

私が学生の頃には、一度も机に向かった記憶もなければ、いざ学校を卒業しましても、社会へ馴染めず職を転々としてきた人生を送っておりました。

それは、社会が要求する成果に対して、それに応えて行くコトへの疑問が付きまとい、そうした鬱憤を晴らす為、様々な趣味へと没頭したのですが、結局、それらの行為は、新興宗教に盲信する、強迫観念へ囚われた人々と何ら変わらない訳なんですよ。

つまり、趣味を趣味として、楽しんでゆくのではなく、逃げ道という【道】を彷徨っていただけなんですね。

結局私は、学業や職業の場にも、趣味といった道楽でさえも、道を見出すコトは御座いませんでした。

そんな中、祈りという、何の興味も関心も示さない行為に対して、私は誰からにも望まれず、誰からにも期待されず、ただ自身の行と向き合うきっかけを与えられたのです。

ただ、祈るという、単純な行為に対して、法流という形を学び、様々な経典に触れ、心と身体を使い、己の体現へと顕す生き方に、私は【道】と呼べる何かを感じた気がするのです。

しかし、それを求めれば求める程、単純に理解出来る様な境地ではないと感じたのです。

道とは【守破離】(しゅはり)と申しまして、従来の教えや形を守り、自分自身の生き方へと咀嚼した後、新たな境地へと至る過程を表しております。

ある歌舞伎役者さんは、テレビのインタビューにて【伝統的な形を学ばずして、新たな文化なんか生まれませんよ。

そういうコトを形無しって言うんじゃありませんか!】などと仰っておりました。

私は、今回の歴史講座を受講しまして、是非とも、若い人にこそ、自分達が暮らす日本の文化の中から、新たな道を見出して頂きたいと感じた次第で御座います。