南郷目代今西氏屋敷見学 大蔵姫 | 中川清秀公・本陣

中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

十月十八日土曜日、年に一回一般公開される『南郷目代今西氏屋敷』(豊中市浜)見学に行ってきました。

パンフレット『春日大社南郷目代・今西氏屋敷』の解説によりますと・・・

今から約950年前、康平5(1062)に、「垂水西牧」は最も有力な貴族であった藤原氏の荘園として記録に現れます。そして、鎌倉幕府が成立しようとする12世紀末に、藤原氏から奈良春日社へ寄進され、その後16世紀末(安土桃山時代)まで春日社の荘園として続きました。(中略)「南郷目代・今西氏屋敷」とは、その垂水西牧榎坂郷を管理するために、奈良春日社から来住した荘官(目代)、今西氏の屋敷です。奈良春日社の社家である今西氏は、その春日社に関わる人々が住む、「南郷」(春日社の西面に通じる三條大路の南側)という地名にちなんで、15世紀末(室町時代)までに「南郷目代」と称しました。

『垂水西牧榎坂郷と南郷目代今西氏』

目代(もくだい)っていうのは代官の古い(中世)言い方だそうです。社家っていうのもこれまた神主の古い言い方。また現在の建物は江戸時代の物だそうですが、ふたたび、パンフレットの解説を見ていきますと

今西氏屋敷の歴史は、13世紀後半(鎌倉時代)における南郷春日社の創建にさかのぼります。(中略)15世紀前半(室町時代)までに、今西氏は南郷春日社の南側に居宅を構えるようになり、本格的な屋敷が成立します。また、原田城北城を拠点とする原田氏などの摂津国人(武将)が台頭し、周辺の荘園を脅かすようになる15世紀後半に、屋敷の周りに巨大な堀がめぐらされ、居館へと変わっていきます。しかし、16世紀末(安土桃山時代)には、今西氏は山崎の合戦で明智光秀についたために、目代としての実権を次第に失います。その後、今西氏は神主・医師として活躍し、また屋敷も「南郷今西屋敷絵図」に近い姿となり、そして現在にいたります。

『今西氏屋敷の成立とその変遷』

ざっとこれが今西氏屋敷についての全容ですが、私の注目はやはり中川氏との関係。解説でも今西氏と明智光秀の関係がふれられていますが、今西家の御先祖に大蔵姫と言われる方がおられます。「今西家文書」の今西氏系図によりますと、大蔵姫は今西家第三十六代・今西春房(ときふさ)と明智光秀の娘(美津)との間に生まれています。つまり明智光秀の孫娘ですね。

初め多田(兵庫県川西市)の豪族・山問左近将監(やまとう・さこんしょうげん)に嫁ぎ女子を二人もうけましたが、山問氏没落により女子二人を伴って南郷にもどります。この山問氏没落は「荒木村重の乱」における信長の北摂平定に関わるものでしょうか。

そして「本能寺の変」で信長は光秀に討たれます。報に接した秀吉は急遽、対陣中の毛利氏と和議を結び山崎で対戦。光秀との関係からか、大蔵姫の叔父にあたる今西春光妻の兄十二松七郎某(吉志部の住人。現在の吹田市)は騎兵十三騎を率い光秀に味方して戦死。

秀吉により神領は没収されます。大蔵姫はその後中川修理太夫秀成(中川瀬兵衛清秀次男)の養女と云う形で津山藩主・森忠政に再嫁しました。本能寺の変で討ち死にした森三兄弟(蘭丸・坊丸・力丸)の末弟です。

森忠政公には中川清秀公の次女も嫁がれています。名は「チボ」。『中川氏御年譜』収録の「中川氏系図」によると「森右近源忠政室。母・熊野田隠岐守小野資利女。天正十六年戌子嫁」とあります。同御年譜・清秀公には年月日詳ならずとしながらも元亀元年の項に「御奥様に御次女御誕生、御名チボと称し奉る」とあります。

さらに「御年譜付録」には「御生卒の事伝はらず、文化の頃森家へ御問合これある処、彼方にも伝わらざる由答へあり。文化十三年丙子四月二十二日、伊藤作内左衛門幸猛、濃州森家往昔の城跡兼山に往て、森家菩提所・可成寺の住僧に、御次女御墓所の事を訪ふに、可成寺は旧城中にありて、森家若州に移るの後、寺を今の所に遷し、墓を後の山に改葬す、今に現存は森三左衛門可成様・武蔵守長可様、唯両公の墓のみなり、此余は伝わらず、今城中に寺の窪といふ地のみありて墓はなし、寺説旧記等此外伝ることなしと云、故に御次女の御遺蹟尋ぬべきことなし」とありました。

ちなみに森可成(よしなり)は美濃国出身で信長の家臣。森蘭丸らの父。武蔵守長可(ながよし)は可成の長男で池田信輝(恒興・勝入斎。信長の乳兄弟。)の娘婿。そして信輝の子・池田輝政(姫路城主)の奥方が清秀公の長女・絲姫。(ややこしい・・・)意外なところでつながっていますねぇ・・・森家についても調べてみないといけませんね。




神鹿の塚

周辺散策の写真です。伝説によると「奈良春日社からつかわされた神鹿の墓」とも「神使いの白狐の墓」とも言われていますが、実際はかつての今西家の領域を示すために作られたと考えられています。かつては「狸の墓」というものもあったそうです。




今西氏屋敷遠景

天竺川の堤防より今西家屋敷をみる。(中央の樹が茂った所)今西氏は武家ではないが、先にみたように戦国期には武家と婚姻関係を結び、居館の周囲には堀を回らしていました。