錦糸たまごの会に行ってきました | 中川清秀公・本陣

中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

 こんにちは。本日、米清さんに紹介していただきました錦糸たまごの会の講演に豊中稲荷へ行ってきました。



豊中稲荷看板

米清さんは唐津の御出身。コメントをご覧になった方もおられると思いますが、米清様のコメントよりご紹介させていただきます。


私の実家の歴史、伝え聞いたところによると、下記の通り。

・姓は中川、紋は中川クルス。
・秀吉の朝鮮出兵に伴い、京・大阪方面より肥前名護屋へ。
・慶長の役・文禄の役後、武士の無常を嘆き町人となることを希望して、肥前に留まる。廻船行を営む。
・江戸時代になり、唐津の町を城下町として整える際(1602~)、藩御用米問屋として、唐津本町に移る。このとき武士紋では商売がやりにくいため、紋を町人風に変える(熨斗輪に花菱紋)。屋号は「米清」、代々「中川清左衛門」を名乗る。
・もっとも隆盛をきわめたのは、米清の2~4代目。
(米清は江戸末まで続き、明治5年より葉茶屋へ転業。)

・・・ということです。
江戸以降の歴史は資料もありはっきりしているのですが、それ以前は伝承です。
資料も残っておらず、肥前に留まった人が、清秀公とどういうつながりのあった方かはわかりません。(清秀公長男の秀政氏の横死が秀吉の怒りを買ったことや、キリシタン紋のことから、身分を隠す必要もあったように思います。)
唐津藩は、領下で島原の乱がおきた後、藩主が重責により自殺して空地となったことがあり、1648年に、清秀公の孫の久盛公(岡藩主)が後処理のために入っています。
この時期あたりから米清の勢いが盛んになっていることを考えても、清秀公とのつながりはきっとある!--と私は信じているのですが。。。

どうでしょう?


とのことであります。以前は大まかな歴史は聞いておられたそうですが、かつては関心なし。ところが、自分の足跡があまりに清秀公のゆかりの地に重なることからご先祖に「私らの事をしってくれ・・・」と背中を押されているように感じてにわかに興味を持たれたそうです。


ちなみに米清様は

唐津⇒京都⇒箕面⇒豊中(職場・池田)⇒(芦屋)⇒茨木⇒山崎 

・・と転居。


お姉さまは現在 豊中・熊野田のあたりに居住。ご主人が文楽三味線奏者で、三味線糸の唯一の生産地が賤ヶ岳はなのでこちらも縁あり

そういったご縁で今回公演を紹介していただきました。演目は「菅原伝授手習鑑」。演目解説によりますと・・・


平安時代の学者・政治家の菅原道真(菅丞相)の流罪に絡ませて親子の別れを描いた、五段続きの時代物です。「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」とともに、浄瑠璃の三大傑作のひとつと言われています。


とのことです。ちなみに「菅原伝授手習鑑」の元ネタは同じく平安時代に主君美女丸の身代わりとなって首を切られた多田満仲公の家臣、藤原仲光の子、幸寿丸に由来するそうです。ご興味のある方は川西市の伝説でお調べください。

公演は初めて聞いたのですが、独特の言い回しや昔の言葉づかいなど分かりにくい所が多かったのですが、ナマの迫力に圧倒されました。素人の方の語りとのことでしたが、物凄く臨場感があって感動しました。勉強させていただきました。次回に備えて勉強しておきたいですね。


さて、お姉さまのお話によると熊野田にお住まいの頃の大家さんが高山さん!

そして熊野田は清秀公室・稍姫様の出里。またご親族の方には「清」や「秀」の名がつくことやおばあ様の名前が「いと」(池田輝政公に嫁がれた清秀公長女絲姫と同じ!)といったことなどを話してくださいました、弟さんは「そんな馬鹿な」と仰るそうですが偶然とは思えません。きっとなにか因縁があると思います。



豊中稲荷

こちらが豊中稲荷。伝承では荒木村重謀反の時、信長方の高山右近によって焼き討ちされたとのことです。

しかし高山右近はキリシタンではありましたが、寺の所領を安堵したことが知られています。信長の命令でやもう得ず焼き討ちしたのでしょうか・・・

以前何かの話で聞いたのですが、キリシタン禁制であった江戸時代に神社、寺を復興するときに、そう言っておいた方が、幕府から補助金?がおりやすかったとか・・・(この辺は記憶が怪しいのでご存知の方おられましたら教えてください)



豊中稲荷由緒

高山右近による焼き討ちを記す由緒。


米清様、お姉さま、本日は有難うございました。またよろしくお願いします。