清州会議 | 中川清秀公・本陣

中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

 お久しぶりです。いよいよですな映画「清州会議」!私も楽しみにしています。秀吉役の俳優、私よく知らないのですが、いい味を出しておられますね。雫様はじい様(清秀公)は参加していなかったように言ってておられますが、実は参加しておられたようですよ。

「中川氏御年譜」に天正十一年月日詳らかならずとしながら、

一清州三法師殿御参向

一八月十三日、岐阜に於いて柴田修理亮勝家・丹羽五郎左衛門長秀・池田勝入・羽柴筑前守秀吉を始め、其余の諸将等と同じく御参会、今晩の評定に、織田殿御嫡孫三法師秀信公を安土に据え奉り、天下の武将と仰ぎ、北畠中将信雄卿・神戸三七信孝殿これを摂し、政は柴田・丹羽・池田・羽柴の四老裁断すべしと評定一決して各々退散す。


とあります。


また「御年譜付録」八月十三日、岐阜に於いて諸将参会の條(明和集録追加)で清秀公が柴田勝家・丹羽長秀等を評価?する場面があります。ちょっとわかりにくい所もありますが引用しますと


柴田勝家は諸大将と一座しながら、衣をかかげ、いさらいを露し、その言事甚無礼也、時に丹羽五郎左衛門尉長秀、秀吉公にささやきけるは、御身天下を服せんと思心あらば、此座にて勝家を可斬と勧むる、秀吉公御笑、渠(かれ)は信長公の老臣随一也、奢ること理なり也、渠が無礼は諸将に対す、秀吉何ぞ一人是を咎めんやと云て止たり、是は丹羽が心中を疑いて斯(かく)は答たり、此事を後に蜂屋・中川清秀公・高山等が評しけるに、清秀公被仰候は、「信長卿の老臣と云は、一老柴田勝家、二老は丹羽長秀也、是双牙二目の臣として、武名も高し、秀吉縦(たと)い大国の主と成る共、渠は外様にして、信長卿に卑賤の時より被取立し士なり、然ば、秀吉は追従すとも、長秀方よりは諂(へつらう)べきに非ず、然るに勝家が無礼奢るを悪しと思わば人を頼らずして自分に咎べき義なり、若し又吾に対したる無礼に非ず、秀吉に対したる無礼也と思はんに、猶秀吉が心に任せて讒言すべきに非ず、是又勇士の本意に背く、次に御身天下を服せんと思ふならば、座中にして勝家を可討と云たる事、弥諂ひたる、軽薄聞くにくからずや、こと見へざるに、丹羽は秀吉の家人と可成、其気すでに顕れたりと御笑い(中略)清秀公又被仰候は、丹羽は武勇ありと云へども、其志小気にして、天下を望む器に非ず、其時々に随ひ、其人に応じて尻舞すべき気質なれば、唯秀吉が猛威に恐て、軽薄する所也」


・・・なかなか丹羽さんに対して辛口評価ですな。余談ですが「へうげもの」でも古田佐助(織部・清秀公妹婿)に「いっそひらきなおって小心者としては(佐助の脳内イメージ)」とか言われてましたっけ。


続いて清秀公の愚痴?

各我等如き禄少なく威勢なき輩は、如何程心は猛くとも、可随身人なければ、大器も小気も無差別、大国を所持し、其威勢有て大成志なきは、鷹に掛爪なきに同じと云へり、蜂屋が曰く、今の世の風俗を伺見るに、追従の諂者多くは立身す、心中に思うことを口に任せて云う者は、必ず立身の押となれり、近く縦(たとえ)を取りて云んに、山崎合戦の武功恐らくは中川殿・高山殿両人に有り、殊に斉藤(利光・光秀重臣・春日局の父)が敗北は、偏に清秀の武勇に有り、依之三七殿(織田信孝)清秀の手を取って、今日の戦功一生不可忘と宣ひし時、秀吉乗輿に有ながら、瀬兵々々骨折と云ひし時、清秀曰く、秀吉が面貌既に天下を呑気有りと云れたり、秀吉彼過言を聞て、咎遺恨に思ひし故、今度過分の恩賞を請へき身が少禄を請ること、例の口故也と云、清秀公御笑い縦へ禄に替ても可云事は不云しては不叶、(恩賞に響くとも言いたいことは言わなきゃ気が済まない!といったところでしょうか)


さすが清秀公!ナイスガイです。以上清州会議の舞台裏!?でした。

雫様色々とおありでしょうが頑張ってください。雫様のブログが私のブログのヒント(力の源)になっていること大です。またお便りできたらいいですね。