勝手な持論を言わせていただきます。
神の価値感というのは「人間の価値はキリストが十字架にかかってくれたという事実で決まる」というもの
一方、世の価値感というのは「人間の価値は人間として優れた点を持っている、優れた業績があるという事実で決まる」というもの
だと考えています。
そして、クリスチャンは当然、神の価値感に立つべきだと思っています。
神の価値感というのは、人間の持っている美点、長所といったものに価値を置いていません。
簡単にいえば、人の役に立つようなことをしたから偉いというのは、聖書的ではありません。
人の役に立つようなことをしたとかしてないとか、そんなことで人の価値は決まらないということです。
すべての人の罪をあがなうためにキリストが十字架にかかってくれたということに人間の価値の根拠があるということです。
そして、そのことを瞬間瞬間信じ続けることこそ信仰です。
これは極端な話をすれば、善良な市民も犯罪者も等しく価値があることを信じるということです。
人殺しをするような人間は死刑にするべきだという考えの人は多いでしょうし、僕自身も自分の家族が殺されるようなことがあれば「死刑にしてくれ」と誰よりも大きな声で叫んでしまいそうです。
しかし、価値があるどころかマイナスであるような極悪人すら神の価値感の前では犯罪をおかしたことのない人間と同等の扱いであるということになります。
神の価値感の前では、万人はみな平等に価値があるということになるということです。
一方、世の価値感では、より優れた美点をもつ人が評価されるのです。結果として、二人の人がいたならば、美点をもった価値のある人とそれに比べて美点が少ない価値のない人ということで必ず優劣がついてしまうことになります。
神の価値感というのは「人間の価値はキリストが十字架にかかってくれたという事実で決まる」というもの
一方、世の価値感というのは「人間の価値は人間として優れた点を持っている、優れた業績があるという事実で決まる」というもの
だと考えています。
そして、クリスチャンは当然、神の価値感に立つべきだと思っています。
神の価値感というのは、人間の持っている美点、長所といったものに価値を置いていません。
簡単にいえば、人の役に立つようなことをしたから偉いというのは、聖書的ではありません。
人の役に立つようなことをしたとかしてないとか、そんなことで人の価値は決まらないということです。
すべての人の罪をあがなうためにキリストが十字架にかかってくれたということに人間の価値の根拠があるということです。
そして、そのことを瞬間瞬間信じ続けることこそ信仰です。
これは極端な話をすれば、善良な市民も犯罪者も等しく価値があることを信じるということです。
人殺しをするような人間は死刑にするべきだという考えの人は多いでしょうし、僕自身も自分の家族が殺されるようなことがあれば「死刑にしてくれ」と誰よりも大きな声で叫んでしまいそうです。
しかし、価値があるどころかマイナスであるような極悪人すら神の価値感の前では犯罪をおかしたことのない人間と同等の扱いであるということになります。
神の価値感の前では、万人はみな平等に価値があるということになるということです。
一方、世の価値感では、より優れた美点をもつ人が評価されるのです。結果として、二人の人がいたならば、美点をもった価値のある人とそれに比べて美点が少ない価値のない人ということで必ず優劣がついてしまうことになります。