続きです。
彼らは異類退治をしていた。
「祓いの神」住吉と瀬織津姫は、彼らの別名であり、それが由縁である。
神秘書では異類の言葉が何度も出るが、それを「彦権現」と表しているのが二カ所ある。
一つは、高良神が、神功皇后の崩御の後、あちこちを巡り、高良山に移るまでの間。
この記事の下にある*Fの人形原の箇所。
異類の攻め来るぞ、と思し召し。(中略)
ほどなく、行て彼人にはむ、高良のたまわく、人形を、と仰せけるにより、それより人形とは名付けたり。
彦権現、異国人にてまします間、彦権現はかりごとを成し給う。
それにより国を司ることなし
諸国旦那はつをもつはらとするなり
高良の彦権現は、もつはらの敵神なり
人形原で高良神が言われた「異類が攻め来るぞ」。
結局、異類と思ってたのが、人形だった。
その後に続く「彦権現、異国人にてまします間」の文。
高良神が言われた「異類」が彦権現であることを説明してると思われる。
ゆえに、その場には異類はいない。
神秘書には「彦権現は敵神」と注訳がある。
*もつはらが分からないが、葦原中津国=国のことではないかと推測。
彦権現とは、「自分の国を持たない、(高良神達の)国の敵」であろう。
これが「異類」である。
今回はその(高良)大菩薩、仁徳天皇の時、高良の御登の道の次第。
巡る土地には、神功皇后と高良神の伝承地があった。
その中には「異類」と戦った地があるのだ。(これ以外は後に)
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高良神は皇宮を出た後、船に乗り、方々を巡る。
神功皇后が崩御した後と記される。
しかし、巡ったと記載される五つの地は、二柱の伝承地でもある。
(神社は後に別々にアップ)
では、彼女が崩御した後の話では無い可能性が大きい。
下の記事の「高良神たちが皇宮を出た後に廻った地」☆4~6は、彼らが名を変えて祭神として祀られる場所。
では、由緒記なのかもしれない。
まずは地図でおおよその場所を。
当時の海はこのようだと推測。
以下の土地へは船で向かってる。
☆14の次には13だと思われる。(南へ行ってまた戻ってる)
(11→15→14(→17)→13→18→1)
(地図はGoogle map)
*A 大善寺(大善寺玉垂宮)。地図11
皇宮を出て船で行き、大善寺に上がる。
船を改め、古い船のこうら(甲羅?)を取り、大善寺大菩薩とあがめ奉る(後の人が、か)。
山を御船山、寺を大善寺と名付ける。(要約)
神社の伝承は、藤大臣(高良神)が仁徳天皇の時代に、桜桃沈輪(ゆすらじんりん)を松明でかざし打ち滅ぼした。(鬼夜祭りの元)
神功皇后がこの地に上陸したとの伝承あり。
松明をかざし打ち滅ぼすのは、相手は人ではない。
似たような神事に太宰府の鬼すべがある。
鬼もまた「異類」なのだ。
*B 酒見(風浪宮)。*地図の15
船で行き、上がる。
異国追伐の御クハンシヤウシユ(=御大願成就か)に任せ、風浪九十九社を祝奉る。(要約)
風浪宮の祭神は住吉大神、神功皇后、少童命(=綿津見神)、高良玉垂命。
安曇磯良丸の像あり。
神社の御由緒によると、
「磯良丸は神主の祖先であり、神功皇后の三韓御親征の折りに海上の指揮を執った。
彼は竜宮に住んでいたが彼女の祈りにより、大海亀に跨り香椎浜に出現。
干珠満珠を捧げて従軍」とある。
安曇磯良丸は、神秘書、志賀海神社の伝承で繋がる。
彼は祭神の高良神であり、住吉、少童命(綿津見神)は同神。
綿津見神が祀られる志賀海神社は竜宮と呼ばれる。
そこにあるのが、上記と同じ伝承。
全て同じ神なのである。
*C 黒崎(黒崎玉垂神社)。*地図14
船で行き上がる。
住むべき方を見るにこの□□□(消されてる)たりて山あり。
「我、住むべきところ」言われ、幡を投げる。(要約)
黒崎玉垂神社は、神功皇后が三韓征伐から帰って最初に上陸。
武内宿禰に行宮を創立させたとご由緒にあり。
ご祭神、武内宿禰、応神天皇、神功皇后、建磐龍神、住吉大神。
全て二柱となり、伝承の武内宿禰は高良神だと分かる。
神秘書と合わせると、彼らは共に「三韓征伐」に赴いたのだ。
(かなり前に行って、ブログに載せず、写真も行方不明。また行きます)
*D 旗崎。*地図17
投げた幡が行き、上宮に立ちなびいた所。
御井旗碕には味水御井神社あり。
高良大社の摂社であり、朝妻の地。
神秘書では、御幸行で初めに巡る地であり、神功皇后と高良神が「鎮在が辻」へ赴く前に泊まった地である。
ちなみに、黒崎玉垂神社から旗崎は、距離にして32キロ。
旗は到底飛ばない。
祭神の由緒記である。(神の所在地を示唆)
(黒崎で旗を投げ、旗崎に落ちて、上宮(高良大社)になびいたので、そちら(高良山)に向かったということ)
また、「旗」は幡。
彼が八幡の神であることも示唆。
*E 瀬高いちかうら。*地図13あたり
馬を控え、山の姿を見るにより、により、いちかうらと名付けた。
この場所が分からないが、いちかうらは、いちがうらであろう。(下記、「広川町HP」参照)
瀬高には大塚老松神社がある。
神功皇后が、土蜘蛛の田油津姫を退治したとされる地だ。
祭神は不明。
老松の神は菅原道真公が主だが、飯塚には大己貴神が祀られる。
ならば、高良神になる。
*道真公については後に。その実、都に雷を落とした天拝神=武御雷神(高良神)だと推測。
土蜘蛛、田油津姫もまた、異類なのかもしれない。
瀬高太神にはこうやの宮と呼ばれる磯上物部(いそのかみのののべ)神社がある。
七枝刀を抱いた神像が祀られる。
磯上はいそのかみであり、石上。
七枝刀は石上神宮に祀られる。
磯神である高良神は、物部の神。
同じであるが故に、七枝刀を持った神像は、神を繋げるものなのだ。
*F 人形原(広川)*地図18
その後、遙かに人が数多見えた。
高良神は「異類が攻め来るぞ」と言われた。
みさき烏を遣わして様子を見に行かせた。
ほどなく見に行って、烏は人ではないと告げた。
高良神が「人形(ひとかた)を」と言われたので、この地は「人形」となった。(要約)
地図13の瀬高から馬に乗り、地図18の人形原へ。
*広川に人形原堤という地名がある。
側に広川古墳群があり、広川町のHPによると、人形とはこの古墳にある石像のようである。
この地だけ、側に彼らを祭神とする社などない。
*G 高良山。地図1
高良山に移る。
住厭(すみあき)に登り、御記文に「高山善為に、良我久しく住みす可」と言われたので、高良山となった。
高良住厭には三年おられた。
四方に八葉の石畳みを一夜に構え、住厭と言われ、今の所におわします。
*八葉の石畳とは、大社の山の周りを大きく囲むようにある神籠石。
三年いて、「住むのに飽きた」と言われて、今の地に移ったということか。
今の地とは、今、高良神が祀られている高良大社の地。
以上、伝承や祭神から、神功皇后と高良神に繋がる地だ。
大善寺だけ別のようにしてあるが、彼らの伝承は時々名を変えて語られる。
(*Fの人形原のみ、伝承があるだけで、彼らが祀られる神社などない)
< 名を変えられた神 >
大善寺では彼らの伝承は、別にあるようにされている。
しかし彼らは夫婦であり、共に異類退治をしていた。
渡半島の楯崎神社、波折神社は近くにありながら、伝承が微妙に違う。
それらを繋げると彼らになる。
楯崎神社の異類退治をしていた大己貴神と宗像三神。
後に訪れた神功皇后。
すぐ側の波折神社には、瀬織津姫と住吉神と神功皇后が鼓島で邂逅したとの伝承がある。
それぞれの神は同じであり、同じ異類征伐の話。
住吉神は高良神、瀬織津姫、宗像神は神功皇后だ。
彼らの異類退治が「祓いの神」たる所以。
よって、それらは高良神が彼女と共に巡った地となるだろう。
彼女の崩御後、高良の神が巡った地は、二柱に由緒のある地となる。
また、以下の記事で皇宮とは、高良山の可能性が高いと分かった。
そこから何処へも行ってないと思われる。
( つづく )
*記事内の考察や写真、イラストなどの無断使用はご遠慮ください。
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今更ながら始めました。
古代や神のこと、少しずつつぶやきます。
小分けなので分かりやすいかもです
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