続きです。
それらの伝承は何を伝えているのか。
羽白熊鷲と戦いを交えた朝倉近辺の話は、当然、香椎宮の件(受胎告知)より後。
この辺りの山は比較的、なだらかなので「身重」を否定することはできない。
(普通は無理なレベル)
きつい雷山、浮嶽は、香椎宮よりも前に登っていた可能性も捨てきれない。
伝承の捉え方により時期が異なるからだ。(後に)
しかし、脊振山と那珂川の裂田溝(さくたのうなで)は違う。
羽白熊鷲討伐の後、三韓征伐の前に脊振に登り、神田の為の水路を造っていた。
記紀、伝承を鵜呑みにすると、そういうことになる。
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そもそも、「伝承は9割が嘘」。
「古代史の謎」の著者、関裕二氏は書かれている。
自分がたどり着いたことも全くその通りで、神話も同じであった。
だから彼女の場合、いつどこへ行ったか(香椎宮の前か後か)など、伝承から推測するのは無意味なことだ。
自分の説の都合のいいように、どちらでもとれるのだから。
例えば、記紀には、仲哀天皇の香椎宮での崩御の場面が詳細に記されてある。
それでさえ否定する伝承が存在する。*1
どちらが事実か、今の時点では誰も分からないのでは?
大体、記録が無かった頃の遥か昔の出来事が、そんなに詳細に伝わるはずがない。
記紀が編纂されたのは、彼らの時代より500年も後だ。
(今で言うなら、安土桃山時代)
それこそ、後の創作と言わざるを得ない。
(この辺りは後のシリーズで)
しかし、そこには1割の真実があった。
それが核となるもの。
常識をすべてとっぱらって俯瞰して見ると、それに辿りつく。
唯一の手掛かりは、「繋がること」であった。
( つづく )
*記事内の考察や写真、イラストなどの無断使用はご遠慮ください。
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*1 記紀では、香椎宮で琴を弾きながら崩御したことをと詳細に書かれている。別伝では、羽白熊鷲との戦いの中で矢に当たった。
病気になった、など。
*2 神功皇后に関する、福岡の多くの神社の伝承は、200年としている。
神功皇后、饒速日命達は200年代であり、彼女は卑弥呼。
今更ながら始めました。
古代や神のこと、少しずつつぶやきます。
小分けなので分かりやすいかもです
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