続きです。

 

< 裂田溝 >

 

彼らは神功皇后と高良神(住吉・饒速日命)。

脊振に祀られている弁財天と毘沙門天。

 

さらに那珂川には、住吉の元宮の現人神社がある。

ここは神話の郷だ。

 

儺の国・奴国=邪馬台国

 

彼らが「生きた土地」である。

 

 

では、彼らが裂田溝を造ったことも事実。(*1)

長く住んだからこそ、土地を整えたのだ。

 

彼らは充分にその技術を持っていた。

高良神である饒速日は、奈良の大神神社の大物主(大国主=大己貴命)なのだから。

 

奈良湖の水を、大和川川床開削により引いたのは彼らであった。

 

 

 

(古代奈良湖*AD200年頃も同じくらい)

出典「古代で遊ぼ」*出典先をぜひ!

大和川川床開削で奈良湖の水が

引かれるとは、出展先のHPの方の説
 

 

現に、那珂川の一の堰の川床には、出雲のたたらの製法が採用されていた。

同じ一族が携わったことを意味している。

 

(一の堰で水を堰き止め、裂田溝に水を引く。

   詳細は那珂川市HP「探訪なかがわ 裂田溝」へ)

 

 

 

その技術は、神が持つ珠の力の象徴とされたのだ。


大国主神の幸魂奇魂(海から現れ、三輪に祀れと告げる)
饒速日の十種神宝の中の珠
高良神の干珠満珠(海の潮の満ち引きを操る)


すべて同神なので、その「珠の力」も同じ物(こと)を示唆している。

 

 

< 身重ではなかった >

 

彼女は山々に登り、裂田溝を造った。

これは事実。

 

そこから推測できること。

 

☆その時、彼女は子を宿していなかった。

(応神天皇は饒速日自身である)

 

☆工期は半年以上かかるので、それ以上那珂川にいた。

 

 

そもそも彼らは、奈良に一時しか戻っていない。

(理由は最後に)

 

だからこそ、この地が「神話の郷」になる。

 

 

 

数々の「伝承の嘘」は、不都合に満ちていた。

(私は三韓征伐さえなかったと考えている。)

 

すべて、嘘を通す為に創作されたものであるが、隠しきってはいなかった。

ちょっと俯瞰すれは、分かる様なものなのに。

 

 

< 住吉神と神功皇后 >

伝承、神話の中で彼らは関わりが深い。

「神と人だから」。

 

そんな記紀での不可解な常識は、高良の伝承があっさりと変えてしまった。

 

彼らは夫婦であって、共に行動していた。

同じ時代に生きていたのだ。

 

それを念頭に置けば、すべての謎が解けていく。

 

 

*彼女が身ごもっていると分かった直後に、夫であった仲哀天皇は崩御。

「住吉神と睦言があった」と思わせぶりな言葉を記す。

 彼らは本当の夫婦。

 

*三韓征伐の船の舳先に現れたのが住吉神。

神功皇后に助力した。

 住吉は高良神。

 高良の伝承では共に行動している。

 

*三韓征伐に助力した神が、住吉神と女神の天照(託宣で告げられた)。

 すべて彼ら自身。 

 饒速日命と、御炊屋姫=神功皇后。

 

*彼女の身重の期間が人より長く、彼女の神秘性を際立たせている。 

 彼女は神では無く、人だ。

 普通に考えれば、あり得ない。

 仲哀天皇の子ではないと、暗に告げているようなものなのに。

 この時代になっても、それが信じられているとは。

 

 では、おかしいのは伝承の方。

 

 

創作ならば、彼女と住吉神との関わりを一切なくせばいいだけのこと。

住吉の名を出さなければいい。

十月十日で生まれたとすればよいものを。

 

なぜ、そうしなかった?

 

 

彼を隠してしまえないのは、神を畏れてのことなのか。

そう感じずにはいられない。

 

 

ここで一つの文言に思い当たる。

高良玉垂宮神秘書に何度も出てくる文言だ。

 

「高良神は物部の姓。違えるならば当山滅す」

 

高良大社にはそう伝わる。

彼は死して後も祟りをなす神。

 

それが、後世においても、完全に封じてしまうことはできなかった理由ではないのか。

 

彼は現人神社の現人神。

国の大事の時、再び現れると預言される神なのだから。

 

 

日本書紀が示す、彼女の日程や伝承にも、様々な矛盾が見られた。

それは後程。

 

 

< その後、神功皇后が奈良に住んでいない理由 >

 

最後に、それを。

 

そもそも、彼女は大和へ戻った後、一時しかいなかった。

 

*奈良には、伝承が酷く乏しいことも理由の一つ。

 

*登った山が一つもない。

 

国を守る神事ならば、登らないはずがない。

それを必要とするほど、長くはいなかったということだ。

 

 

何より。

これだけ山に登れば、登り続けるもの。

人の想いなんて、何千年経ってもそう変わらない。

 

好きでたまらなくなるから登るのだ。

そこにあるすべてに会うために、登るんだ。

 

奈良に行けば、奈良の山に登り続けただろう。

だから、長くは住んでいない。

 

しかし、彼女は筑紫の山に登っている。

身重では決してなかった。

それは揺るぎない答えだ。

 

実際に、浮嶽、雷山、現人神社から背振まで往復してみると分かることなのだから。

 

 

 

(おわり)

 

 

今回は、山について書きました。

伝承にある「期間」の矛盾点やその他についてなどは、別シリーズで。

実際に歩いて確かめていますので、そちらをUPしてからになります。

 

感想とかあれば、ぜひ。

批判は受け付けません爆  笑

平行線になるので、持論はご自分のブログで。

 

 

*記事内の考察や写真、イラストなどの無断使用はご遠慮ください。

 

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*1 実際、裂田溝が造られたのは弥生時代ではないかと説がある。

(彼らは200年前後の弥生時代末期。古墳時代は一般的に3世紀後半・250年頃以降から)

 

 

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