アメリカンニューシネマ(反体制的な人間、主に若者の心情を綴った映画)の1つ。テーマは「自由」。大きな権力による支配とそれに反抗し自由を求める者がテーマです。


アメリカンニューシネマとはヘイズコードの規制がなくなり暴力やセックス、反政府的なメッセージを取り入れた映画。政府に反抗し立ち向かうが社会や政府に勝てず殺されるラストシーンがほとんど。




自由=悪という風潮になってる現代に反抗した傑作です。


ー自由のない社会ー

本来入るはずのない精神病院に刑務所の労働が嫌である男がわざと入ります。ただそこで見たのは自由のないなんの活気もない所でした。そこでジャックニコルソンは規定に歯向かい自由を手に入れ楽しもうとします。ラストもそのせいで手術され廃人と化します。どっちが正しいのでしょうか?自由を求めいるはずのない場所で戦ったのに、廃人にされる。病院側の方がもっといかれてると思いました。そんな報われない姿に感動します。


ー社会の圧力ー

かつて、ビリーは女の子に気持ちを告白し、それを母にとがめられたビリーは初めての自殺を図っている。そのため母親にはビリーが初めて女の子とベッドを共にした事を言わないでほしいと頼む。女性と性的体験をしたことで言語障害もなくなり一瞬正常に戻ったかのようの見えたビリーが、婦長の「母親に言いますよ」の一言で引き戻されてついには自殺してしまう。これも圧力の一つである。


ーラストー

「ロボトミー手術」(この手術ができるまでショック療法で精神を治療していましたが確信的に治ることはなく70年頃までの精神病院では、手に負えない入院患者の前頭葉を切除する、という手術を行っていました。

前頭葉を切り取られてしまうと、意思や感情を失ってロボットのようになる、『心の手術』として注目を浴びていた残酷な手術です。)され主人公は廃人のようになりました。そして最後に主人公の自由を求める姿勢に心を動かされたチーフという名の患者が一人 (One) で自由を求めて、cuckoo=crazy、つまり精神病を患う人の集まる精神病院 (the cuckoo's nest) から飛び出して脱出する (flew over) ことを象徴しており、もともとの由来はマザー・グースの詩です。

一羽がカッコーの巣を飛び立ったとなり、これは最後に逃げたチーフのことでもあるが、「死」であの地獄から抜け出したマクマーフィのことでもあります。


終盤に行われた日課の討論会のようなところで皆が看護婦に反抗していました、結構言ってること重かったです。例 「人と一緒に過ごす方が治療になり1人でいることは精神上よくない」と言われ

「1人になりたいという願望は病気なのですか?」と、重い一言。


それとジャックニコルソンの終盤の表情のカットだけのシーン、嬉しくて寂しそうな、いったい何を考えているんだろう、とても良かった。



でも努力はしたぜ。チャレンジはした。

超難解作品「仮面/ペルソナ」




テーマ

人格の融合

どれが本当の仮面(=人格)なのか、二人はお互いの人格を侵食しあうことで新たな仮面を見つける。

そしてベルイマンの映画に対する思いと情熱。映画とは芸術とは何か。芸術は人を救えるのか


ユングの提唱した誰もが仮面を被り演じてるというテーマを取り扱っている。


人間は誰もが表と裏の顔を使い分け仮面を被ってる。そうして人間関係を円滑にコントロールするのだ。自分自身もそうだがそのバランスが崩れると、内面の自我(裏)と「仮面」(表)のどちらが本当の自分なのか判断がつかなくなり、二重人格ではないかと疑うようになる。


人と接する時と1人でいるときのギャップが激しすぎるとどっちが本当の自分かわからなくなる。病気になる人もいる。私個人は1人でいるときの自分が本当だと思ってるが人と接してるときその仮面を被った自分に本当の自分はこっちなんだと侵食されそうになる。この映画はそうゆう事だろう。


エリザベートは“仮面”であり、アルマがその“内面”として描かれてる。自身の罪と欲望を語る看護婦のアルマとは、女優としてのペルソナを被るエリザベートの抑圧された内面であり、内面と外面がぶつかり、理解し合い、やがてひとつに統合されるまでを描いた映画である。



失語症の女優と、幸せな家庭を夢見る看護婦二人はある別荘で二人だけで療養生活を始める。看護婦は自ら仮面を外していく。そして主人公二人の人格は侵食しあっていき、人格がぼやけていく。そして最後にアルマとエリザベートの顔が合体しエリザベートはアルマの血を飲む。アルマも今まで憧れていた女優のエリザベートの内面を知り、女優も一人の人間だしダメな部分もあるということがわかる。アルマ自身も、今まで目指していた理想像とは決別し、自分の生き方を見つける。



ーオープニングー

・まず最初は二つの強烈な光と熱がだんだん明るくなっていく。映写機に使う光だ。9,8,7,6(ギリシャ語でセックス)でペニスが映ります、次に古いアニメで胸に水をかける、次に実際は唇だが横に移し女性の陰部に見せる。これはセックスを意味してます。

・そしてその後タランチュラと羊の首と内臓、手を釘で打ったシーン、老人の死に顔。これは死を意味しており羊は生贄の象徴、蜘蛛はベルイマンの映画における神の象徴、手を釘で打つのはイエスキリスト。

・少年が読んでる本は「現代の英雄」この中にこの映画のアイデアとなったセリフがある。「俺には二つの人格があるんだ。一つは現実に生きてる人格。もう一つはそれを批評してる人格。」

これは二人の人格の融合であり、一人の二つの人格の話でもありますよと暗示してる。

・少年が触ろうとしてる顔はわざとアルマなのかエリザベートなのかわからないようにしてます。これは映画全体のテーマ人格の融合が関係してます。


ーアルマとエリザベートの象徴するものとはー

アルマ=一般人

エリザベート=芸術家+ベルイマン

芸術家というのは私生活を無茶苦茶にしいろんな人に迷惑をかける。しかしそれで出来上がった作品は人を救うんだ。エリザベートは他人に迷惑をかけ私生活も崩れかけてる。でもこの女優を見たアルマは普通に行きてこうと人生を変えられるのだ。芸術家たちの人生を犠牲(羊の首が切られるシーン)にして人々をめちゃくちゃな人生から救うのだと暗示している


ー少年の写真ー

これはユダヤ人街ゲットーを写した写真でユダヤ人がドイツ兵へ反抗した。しかしその後ユダヤ人降参したがその降参する時に少年を一番前に出した有名な写真である。おもて面はエリザベートの子供を思い出させるとして描かれてるが、焼身自殺をするベトナムの僧侶もそうだがベルイマンの思い、芸術は人を救えるのかというのを表している。


ー女優の夫が別荘に会いに来るシーンー

考察1、エリザベートは母性がないと言われ子供を作り母親の仮面を被り、職業でもいろんな仮面を被り、夫が病院に来た時はアルマの仮面を被りよき性格の持ち主アルマとして喋った。母性がないと言われたことについてもそれをアルマが知るはずがない。よってこのシーンとすぐ後のシーンでわかることは2人の人格が融合し仮面と素顔なのだろう。


ータイトルー

ペルソナ=人格、仮面

昔ギリシャ(世界中でも)では演劇の際必ず仮面をかぶっていた。よって演劇、女優について語った映画である。

そしてユングは、人は皆仮面を被りシチュエーションに応じて演技してる、時によって仮面を付け替えていると言ってる。


ーこの映画にかけたベルイマンのメッセージー

失語症の女優はベルイマン自身です。実際に働きすぎで入院し、戦争や社会への無力感、僕のやってる芸術は現実に役立ってるのだろうかと悩んでたそうです。そのため坊さんのガソリンをかぶって焼身自殺したニュースゲットーにいる少年の写真が出てくる。少年の写真にはもっと深い意味があり、エリザベート役の女優さんのおじいさんはユダヤ人ではなかったが助けるために反対運動をしていた。そのため収容所に送られ殺された。人々を守ろうとしたのに殺された実の爺さんがいる。なのにこんな女優なんかやってていいのかというベルイマンのメッセージ。


最初ベルイマンはタイトルを「映画」にしていた。劇中途中でフィルムが止まりひび割れ焼けるシーンがある。あなたが見てるものは映画ですよというメッセージ。すなわち冒頭のシーンも、映画はセックスで暴力で死であると暗示している。さらにラスト、治療が終わったエリザベートは帰って行きそしてメイクをしたエリザベートが映ります。これは復帰を意味しそのあとすぐにカメラを乗せたクレーンが降りて来ます、そこに乗ってるのはベルイマン自身です。「僕は治療が終わりました。これからも自分を犠牲にして人々を救うために映画を撮り続けますよ」と映画に対する結論が出た映画なのです。

希望に満ち溢れた最高の人間賛歌の映画であった。

人間の感情今作では愛、はどんなことでも成し遂げられる。小説みたいな映画。


ー監督のメッセージー

今の科学技術は進歩してんのに宇宙開発は縮小してスマホやパソコンばかりに使われてるじゃないか。昔のような宇宙を夢見てた時代はどこいったんだ!みんな携帯いじって下ばっか向いてないで上見上げろよ!人類進化し続けろよ!というメッセージが伝わってくる作品です。昔を思い出させるため撮影方法や劇中の設定は1960年代を真似ている。


辻褄が合わないところがいくつかあるが監督はこの映画を寓話的でロマンを持って作っている


重力は時空を超え愛は時空を超越する。そして何もない宇宙に1人で漂っているからこそロボットの声でさえ安心する。だから人間はもっと暖かく感じられる。この映画語ってたらめちゃくちゃ長くなるからよくわからなかったポイントと少しの感想だけ書きます。


ー宇宙の研究に基づけられた映画ー

この映画はストーリーとか演技だけでなく宇宙空間も綿密に再現されている。理論物理学者キップ・ソーン監修の元作られているらしい。この人はとても有名であらゆう研究にて活躍されてきたためあの世界は十分にありえる。


ちなみにこの砂嵐は実際に地球上で起きた事があるとのこと。



ーマーフィーの法則ー

マーフィーの法則(英: Murphy's law)とは、「失敗する余地があるなら、失敗する」「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」


インドの無人機・・ドローン(無人機)の部品を家に持ち込んでから、「重力の異変」にマーフが気づく訳で、あれは未来の人類なる存在からの贈り物のようなもの(だろう)。


畑を燃やした意味・・兄の息子を病院に連れてくため兄を家から出しおびき寄せるために燃やした。


ラザロ計画・・ラザロとは聖書に出てきており、1度死んだ者に祈り続けたところ蘇ったという話。これはプランBにぴったりはまる。1度人類は見捨てられ絶滅する。しかし人口爆弾で蘇らせる。


四次元・・四次元を「縦・横・奥行き」の三座標に加えて「時間」という四つ目の座標からなる次元


5次元・・時間を物理的に見る事のできる世界。だから過去も未来も見れる。ラストシーンのように重力は時空を超えメッセージを伝えれる。


彼ら・・未来の特化した人類or五次元生命体(人知を超えた存在)もしかすると神という存在に支配されてるのではなくて人間自身の進化を伝えたかったのかもしれない。脳をデータとしてコンピュータに移し肉体のない存在だけがある未来の人間。

そしてこの彼らは2001年宇宙の旅での宇宙人の答えなのかもしれない


なぜガルガンチュアに落ちたクーパーは助かったのか・・彼ら(未来の人間)が外に出したと予想します。



ラスト・・特異点にTARSを浸入させたため特異点の重力の謎がわかり、クーパーがモールス信号でマーフに伝えた。そして人間は重力を操れるようになった。

「愛は時空を超越する」だからマーフが時計を取りに来るのを信じていたし、アメリアのエドマンズの星が行ったほうがいいという意見も最終的に正しかった。そしてエドマンズの星にアメリアがいて酸素もありました。見事プランAでコロニーごと地球を脱出した人間たちの新たな住処であるエドマンズの星になるに違いません。まさに希望を描いた傑作です。

人間に対する希望であり愛は科学では証明できない大きなパワーを持ってるということを象徴している。

日本の誇りであり宮崎監督の最高傑作「千と千尋の神隠し」



ー神隠しの意味ー

引っ越し先へ向かう途中に立ち入ったトンネルから神々の世界へ迷いこんでしまうというストーリー。神隠しというのは人間がある日忽然と消えうせる現象(ラストに親から勝手に急にいなくならないでと言われている)。神域である山や森で、人が行方不明になったり、街や里からなんの前触れも無く失踪することを、神の仕業としてとらえた概念。これにより千尋は神の仕業で神の世界に連れてかれ、生きることの大事さを教わり一人でもやっていける勇気を教わる。舞台が売春婦なのも昔売春は神に触れることのできる特別な職業とされてきたから。


ー売春宿がテーマにー

この映画は売春宿で風俗関係の映画であると監督自ら言っています。もともと赤い提灯は売春宿を示すものだったそうです。

湯女=売春婦であり千尋もその一人でありました(実際は売春はまだしてません。最初は下っ端で売春はさせてもらえないためまだしてません)「湯女」とは「垢かき」とも云われ、客の躰を洗うことが本来の仕事です。が、それだけでは金が上がらない(儲からない)ので「秘密裏に客の相手をさせることもある」宮崎駿さんは、この映画のインタビューの際に、

「今の世界として描くには何が1番ふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」と答えました。用するにすべての会社に裏がありそれが収入の大元になってることもあるということを言いたかったんじゃないでしょうか。


ー神と接触できる売春婦ー

売春婦というのは悪いイメージがあるが当時は神と接触することができる職業と称えられてた。売春というのは自分にとって嫌なことをやり同時に相手に愛を与える職業とされてました。そのためこの映画は嫌なことを必死で頑張りダメな両親を救う、昔からよくある話をやってるとのこと。

千尋は最初から食べ物の欲望に負けた豚(両親)やカオナシが金を差し出したのに受け取らなかった点から欲望に勝つ強い子なのです。


ー名前の間違いー

千尋と冷たい母親、坊と甘やかしまくる湯婆婆が対比として描かれています。

彼女の名前は「荻野千尋(おぎの ちひろ)」というのですが、実は彼女、自分の名前の「荻」という漢字を間違えて書いてしまっています。千尋は後に、ハクから「自分の名前を忘れてしまうと帰れなくなってしまう」と忠告されます。だから、自分の名前を間違えて書いてしまったのは、その初期症状が、すでにこの契約のシーンで現れたということなのだそうです。それと湯婆婆に名前を奪われず帰ってこれたのは間違っていたからです。


ー廃棄問題ー

油屋にとんでもないお客「腐れ神」がやってきます。お風呂で浄化された腐れ神のヘドロから出てきた物は自転車、鉄骨、空き缶、ドラム缶、トイレ、不法投棄された電化製品などのゴミの山だったのです。この描写から人間が川にゴミを捨て、神聖で清らかだったはずの川が汚れ、主はこのままでは自分が留まる居場所がなくなってしまうと油屋へ駆け込んできた背景がわかります。


ーカオナシの正体ー

カオナシの正体は「人間の負の側面」であると言えます。カオナシは欲深さ、利己、支配欲、執着心などの人間が誰しも持っている負の側面を集約した存在です。カオナシは資本主義の擬人化。アレが旅館に入れないようにされているのは、悟りの境地である神々の世界(旅館)に資本主義(=強欲の塊)が入れないって意味。カオナシが渡した砂金が土くれに変わったのは、監督の「お金では解決できない大切なことがある」という意思表示。宮崎駿監督は「カオナシはどこにでもいる」とインタビューで答えています。千尋を手に入れれば自分を慰め、満たしてくれると思い込み執拗に追いかけるものの、寂しさや虚しさは埋まらないカオナシの様子は次々と果てしない欲求を満たすために新しいものを取り入れては捨てていく物質的・資本主義に偏っている人間の側面に似ています。


ーハクの正体ー

腐れ神と同じようにハクの正体も千尋が小さい頃に落ちた川の神様でした。マンション建設のため埋め立てられて居場所を失い、油屋へ流れつき、神様だったことを忘れ、湯婆婆の手下として労働していました。人間の世界にはもう自分の居場所も覚えている人もいないと悟ったハクは、湯婆婆からの悪事に近い仕事を引き受け続けることで居場所を見出し、なんとか存在していたのです。


ー千尋の成長物語ではないー

物語の終わり、千尋が無事に両親を取り戻し、トンネルを抜けて現実の世界に戻ってくるシーンがあります。このシーンは、映画冒頭のトンネルに入って行くシーンと全く同じ描写です。千尋は怯えながらお母さんの腕にしがみつきトンネルを歩いています。

ここで不思議に思うのが、成長したはずの千尋はなぜ帰りのトンネルでも怯えているのだろうか? ということです。実はこのシーンに関して宮崎駿監督が答えています。「この子は成長しない子なんだよ」千と千尋に関して、宮崎監督は「成長物語ではない」と明言しています(パンフレットのインタビューにも載っています)。何も出来なかった少女が、異世界に放り込まれて頑張って自立する成長ストーリーでは決してない、ということです。

成長すれば素晴らしい、というような安易なストーリーにはしたくなかったとおっしゃっています。エンディングの歌でも歌われているように、あのお話は「輝くものはいつもここに 私の中に見つけられた」ということがメインテーマのようです。つまり、もし千尋のような状況に放り込まれても、大丈夫、君はやっていけると、少年少女たちに言いたかった、そんなお話とのことです。


ーもう一つのテーマー

秩序を忘れた人間は自分たちの都合だけで建物を建てたり、土地を開拓したり、森や山を削るようになりました。古代から存在し続けていた土地も山も川もあっという間にマンションやビルに変えられてしまいます。こうして少しずつ自然と神々の居場所は奪われていきました。この物語のもう一つのメッセージは新しく便利な物が生まれるのと同時にいにしえの尊い存在が消えていることに気づかない人々の愚かさへの警告です。最初に出てきた石の祠(神様のおうち)が無残に転がっていたシーンもこのことを言ってるのだと思います。


ー千尋のモデルー

『紅の豚』のポルコ•ロッソのモデルになった佐伯氏の家族+プロデューサー家族+宮崎駿監督ファミリーの3家族でキャンプに行ったそうです。
そこで、佐伯さんの娘,ちさとちゃんの赤い靴が川に流されてしまい、それをみんなで拾おうとしてみんなずぶ濡れになり、そして大声で笑いあったそうです。その出来事が響いた宮崎駿監督はそれをきっかけに元気を取り戻し、そしてちさとちゃんに対する感謝の気持ちから、当初は映画タイトルを『千とちさとの神隠し』としていた。しかしストーリーがまとまるにつれ性風俗産業に絡めた物語となったので、名前を千尋に変更したようです。劇中で千尋の両親が豚になりますが、なぜ豚なのか?それは、先ほどの千尋のモデルになった「ちさとちゃん」の父親が紅の豚のモデルになった人だから。ちなみに豚になった理由は神様たちの食べ物を食いあさった人間を湯婆婆が動物に変えたから。


ー言葉の力ー

宮崎監督はこう言っています。

「言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「かえりたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処に行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産み続けるかの道しかなくなる。逆に「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉は限りなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受け取られているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。

世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。」


千尋はもののけ姫のサンの子孫だそうで、「人間くさい」と言っていたサン。しかし、自分の子孫(千尋)が「ヒトくさい」と言われてしまっている入り組んだ演出ですね。



ちなみにお父さんの車が「へ」ナンバーでしたが現実にへナンバーは存在しません。これも神隠しと関連があるのでしょう。








ブラックスワンに影響を与えた作品「パーフェクトブルー」




現実・夢・劇が入り乱れて進む為複雑な構造になっている。


本当はアイドルのミマが本物で今の女優の自分は偽物なんじゃないかと考えでてくる幻覚とルミによるアイドル未麻とルミ自身の二重人格。現実・夢・劇中のドラマという3層が入り乱れる目まぐるしい展開が余計わかりづらくなります。


ーテーマー

この作品のテーマの一つとして、「光と影」ということが挙げられます。例えば「未麻ともう一人のアイドル姿の未麻(我々はヴァーチャル・未麻と呼 んでいました)」であり、またステージに立つものとそうでないものとして「アイドルとそのファン」、「タレントと裏方スタッフ」といった対比です。


脚本家渋谷、カメラマン村瀬、事務所社長田所、未麻ファンの内田殺人、アイドル未麻、そして「未麻の部屋」管理人の全てがルミ。話の流れや殺害方法(目を潰すという特徴)からカメラマン村瀬と脚本家渋谷と事務所社長田所の犯行はルミでした。未麻が見ていた幻覚アイドル未麻はおそらくルミの二重人格と未麻のアイドルのままいた方が良かったんじゃないかというとこから重なりあのような幻覚が見えてしまったのだと思います。

そしてラストに出てきたあの部屋はアイドルを続けていた頃の部屋になっており外の風景も違い金魚が生きてることからルミの部屋だったということですね。マネージャーが二重人格で完全に未麻(アイドル時代の)になりきっていたんですね。


ー女優としての未麻ー

あなた、誰なの?

撮影の待ち時間に、この一行だけのセリフを必死に練習する未麻。彼女の口から繰り返されるこの「あなた、誰なの?」というセリフは、本作が観客に投げかける問いそのものです。

未麻自身もストーカーへの恐怖、女優業でのストレス、幻覚などから精神的に追い込まれ現実と、夢、劇中の区別がつかなくなっているため繰り返しの描写や観客すらも気づかないほどの現実と劇中の混合された描写が素晴らしかったです。


おそらくミスリードとして使われていたME-MANIA(気色悪い警備員)。そっ手に気をそらしておいてルミが最終的な黒幕だとはうまいなと思いました。ストーカーに襲われたとき、未麻がストーカーの頭をガツンと一撃するシーンがありますが、あれは殺したのではなく、気絶させたのだと思います。(後始末はマネージャーの仕業でしょう。)


ブラックスワンとの共通点として鏡を見な時に幻覚が映るシーンを何度も使ってます。。






Twitter:@kagoshima_ryo



人間対自然の「もののけ姫」


ーテーマー

今作のテーマは「人間対自然、共生、異文化の衝突」である。

結局、文化が違えば、簡単には融合することはできない。かといって対峙させてしまうと争いが起きる。

もともと人間であったサンですら、もはや人間の世界では生きることはできないし、それは彼女が背負ってきた歴史がそうさせてしまうのであろう。

アシタカもまた、もののけに属する事はできない。一度は自分の文化を捨てた彼も、結局は人間としてタタラ場で暮らすことを選んだのだ。

キャッチコピーでもあり最終的に出した答えは「生きろ」。自然や文化に興味を持たせもっと生きることを楽しませたかったのではないのでしょうか。



ーサン(もののけ姫)の文化「純粋な母へ対する慈愛」ー

サンは人間ながら山犬に育てられた少女。作品の真の主人公とも言える彼女の生い立ちは、育ての親となった山犬モロによって「森を侵した人間が我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ」と語られています。つまり、サンは人間犬神を恐れ生贄として使われたと推測できます。そんな赤ん坊を不憫に思ってか、モロは人間であるにも関わらずサンを自らの娘として育て、その結果人間ながら人間を憎む山犬の姫が生まれました。劇中のセリフでも出てくるように山犬にも人間にもなれない哀れな娘として生きてきたサンでしたが、初めてアシタカにより自分自身の存在を肯定され美しいと言われました。

アシタカは人間(サン)と犬神(モロ)が共存しているのを森の中で発見しのちに「そなたは美しい」という言葉が出たのでしょう。


ージコ坊の文化「天皇文化」ー

ジコ坊は天皇に命令を受けた「唐傘連」の頭領である。要するに、ジコ坊は天皇文化に属する人間なのである。「やんごとなき方々の考えはワシにはわからん」天皇からの勅令に関してはあまり理由について深く考えてないことが分かる。また、作品の最後「バカには勝てん。」という台詞があるが、ここで言うバカとは、「天皇の支配を理解しないバカ」と「損得勘定ができないバカ」という二つの捉え方ができる。


ーエボシたちの文化「自然に対峙する文化」ー

アシタカは傷ついた人間を救うため、山の中を通ろうとする。そんなアシタカの目の前に現れたのは、コダマ(木霊)であった。道案内をしてくれてるのか。迷いこませる気なのか」

アシタカが、自然に対して身を委ねる文化に属していることがよく分かる台詞である。

これに対して、けが人であるコウロクは、「こいつらワシらを帰さねぇ気なんですよ」と、コダマに対して否定的である。これはコウロクが自然に対峙する文化に属する人間だからであろう。アシタカとは異なり自然を人間の力でコントロールしようとする文化にいるコウロクはコダマに身を委ねることができないのだ。エボシの文化、それは当然単に自然を破壊するだけの文化ではない。エボシは自然と戦ってでも守ってきたものがあった。もともと社会的弱者であった彼女たち、また重病患者には病気がうつることを恐れて人が近寄らなかったが、エボシはそんな彼らにも仕事と酒を与え、人間扱いをした。エボシは単なる悪役ではなく慈悲を持ったいい人間であるということがわかり、自然伐採も生きるために仕方なくやっているということがわかる。

アシタカはそんな姿を見てどちらも救う道を選んだ。どちらの文化にも触れて、しかし、そのどちらの文化にも属することができないアシタカは、懸命に「共に生きる」方法を模索する。


もののけ姫のいいところは、根っからの悪がいないとこである。


祟り神とは森林伐採をやめない人間に対する怒りや憎しみが溜まりに溜まって爆発する。祟り神の気持ちに同意できるし現在の人間だっていつ祟り神になるかわからない。祟り神は決して間違ってはいない


ーラストー

最終的に元のシシ神の森は消え失せ、サンが唯一心を開いた人間であるアシタカとも別の生き方をする事になりますが、結局サンは守りたい物も守れず、人間としてアシタカと共に文明社会で生きることも選択できませんでした。一応、アシタカは「ヤックルに乗って会いに行くよ」と時々森に顔を出す旨のセリフでサンと別れるようですが、『もののけ姫』のテーマの1つである「共生」という面で考えた時、本来の目的は達成できてないのかもしれません。しかし対峙するわけでもなくお互いがそれぞれ手出しせずそれぞれの文化で生きていくことを選びました。

ハッピーエンドでは決して終わらない自然の残酷さと美しさ、そんな自然という理不尽な大きいものに翻弄されながらも生きていく、そんな人間たちの姿を宮崎駿監督は描きたかったのかもしれません。


ー千と千尋の神隠しとの繋がりー

千と千尋の神隠しで出てくる千尋はサンの子孫だそうで、「人間くさい」と言っていたサン。しかし、自分の子孫(千尋)が「ヒトくさい」と言われてしまっている入り組んだ演出ですね。


告知になりますが、明日か明後日からこのブログのオフィシャルサイトを立ち上げることになりました!!そちらではもっと詳しく、映画以外にも投稿するのでお願いします^ ^

https://ryok-log.com/


Twitter @kagoshima_ryo


さて!解説に参ります^ ^

本日はジブリ作品「かぐや姫の物語」


もっともっと高評価を得ていい作品であり高畑監督が竹取物語を独自の解釈で作製しておりその解釈が天才的で素晴らしすぎます。自分的にジブリの中で1,2位を争います。

ちなみに高畑監督は東京大学文学部 仏文科出身のためかぐや姫をこのような素晴らしい解釈に至ったのだと思います。


ー罪と罰ー

姫の犯した

罪=地球、人間に憧れた事

罰=人間として生命を与えられた事

この時点では意味がわからないと思いますが、解説していきます。


ー仏教とはー

メッセージとして生の否定と肯定が読み取れました。新たな視点で生きるということを考えさせられた。キーワードは仏教。


月=仏教(けがれなき)の世界

地球=けがれた世界


これが仏教の考え。

穢れた地球に憧れを持つ。罪=「穢れた心(けがれたこころ)」を持ってしまったこと

罰=「穢れた環境で生きさせる」という事。


ーラストー

いきなりラストについてですが姫が帰った先はいわゆる死の世界。迎えは(死)誰にでも来て待ってはくれない。死というよりかは無の世界。無の世界(ここでは月)であるがゆえに完璧でありその対象になっているのが地球。地球は生命で溢れており自然や空気、感情さえも存在する。そういったものが存在してるがゆえに、罪や苦悩、問題が生じる不完全な世界になっている。


ー絵の意味ー

アニメーションでやるのにも意味がありまさに無の世界(空間や線、点や色などの絵)に生命を与える。だからこの様な絵のアニメーションになったのだと思います。


ー姫の犯した罪ー

姫が犯した罪は地球に憧れたこと。かぐや姫より先に、地球に行き、地球の記憶はもう無いのに、地球の歌を歌っては、涙を流す、月の民がいたそう(劇中で何度も歌われてる歌です)。その様子を見たかぐや姫は、地球に興味を抱き、地球人のように「生きる」ことに憧れたとか。

これの何が悪いのかというと竹取物語が作られた当初人々はただ生きることさえも容易ではなかった、この世界で「生きる」ということは、

苦しみ以外のなにものでもなかったのです。繰り返される生死の営み、

輪廻を彷徨い、永遠に苦しみ続ける。

竹取物語が作られた当時、古来から日本は仏教の影響を受けてました。仏教において、目指すものとは、涅槃。涅槃(ねはん)とは、仏教用語で一切の煩悩(ぼんのう)から解脱した、不生不滅の高い境地。転じて、釈迦(しゃか)や聖者の死。という意味。そこで、修行に励めば、この繰り返される輪廻から脱却し、静かで心の乱れさえも無い平和な地へと行くことができる。その、安らぎの境地こそが、涅槃。そして、『かぐや姫の物語』で月の民が仏の姿をしていたことからもわかるように、竹取物語では、月こそがその涅槃だと描写しているのです。

実際涅槃の絵を見てみると月から迎えに来た時の姿と似ているものがあります。


 このことから考えると、未だ輪廻から脱却できずにいる

地球人とは、愚かな存在。

その地球に対し興味を抱き、心を乱され、

地球人のような生き方に憧れを抱くことは、

月の民からすれば、罪。

涅槃に至ったにもかかわらず、愚かな存在(地球人)に興味を持つ、

仏教の教えからすれば、論外の大罪です。


ー姫への罰ー

そして、そのようなかぐや姫に対して、

与えられた罰が、地球に行くこと。

地球に行き、様々な煩悩に支配され、

好きや、幸せはあるがそれと同じくらい生きることの苦しみを味わう。実際に、かぐや姫は、地球にきて、

これでもかというくらい様々な感情に苦しみます。

何度も悲しみ、怒り、涙します。

「月に帰りたい。」

この瞬間、月の民の思惑通り、

散々煩悩に苦しみ、地球という煩悩の地からの脱却を

心から願う、という、罰が見事に遂行されたわけです。



しかしラストシーンから生きることは素晴らしいんだと生きることは良い事なんだと思わせてくれます。地球はけがれてないんだと、無の世界よりも苦悩や苦しみがあろうと何かあったほうがいいという事が読み取れます。

その証拠にラストかぐや姫の記憶がなくなったとき観客自身が悲しく虚しく痛いほど感じたはずです。



僕ら人類は皆かぐや姫なのかもしれない。何億年もの間無の状態であり、今こうして意識を持って生きている。罰として必ず苦悩や困難などがあり誰しも迎え(死)がくる。











アート的センスもストーリーも哲学も一級品。日本のアニメ作品で外国人に自信を持ってお勧めできる出来。




ー人間の持つ善悪ー

人の自我は善悪の両面性があり、善(シロ)だけでも悪(クロ)だけでも生きていけない。だから愛を忘れてはいけないしクロのように善(シロ)を取られ守るために突き放すと悪は暴走し人間は壊れる。そして均等にあった善悪は崩れ精神に異常をきたし、そしてイタチによってシロ(善)の存在が消えてしまいそうになる事にシロも狂ってしまった。

クロが人形相手にシロと言ってるのも善(シロ)とは何かわからなくなってしまった。そしてその人形が撃たれた時クロの中のシロはなくなりイタチ(クロの中の完全なる悪)が表れクロを愛のない本当の悪に陥れようとした。皆さん気づいてると思うがイタチとはクロの完全なる悪の部分。手の傷やイタチ自信をもう1人のお前だと言っているし、何と言っても二宮君がクロとイタチの声をやっている。


ー聖書との関係ー

この映画の裏にはエデンの園のストーリーが隠されてる。その証拠に禁断の果実であるリンゴが何回も起用されていたり悪役で蛇が出てきていたり神についてもセリフで出ている。


悪役が何故「蛇」であったか。

それはユダヤ教的な概念ではなかったか。蛇(サタン)は精神的盲であるアダムを開眼せんと誘惑するものである。開眼する前のアダムを人の幼年期と捉えれば、その子供に対象を絞ってあくどい商売をする本作中の蛇は、正にサタンそのものである。その目指すところは、人の心を乗っ取ることであって、とある人間の世界観に悪魔的なものを植え付ける、否、それで占有しようとするものだ。


アダムは聖書の中で、サタンにそそのかされて林檎を食し精神を得る。

蛇が死んだところで林檎の芽が息吹くことは、精神を得るための準備がようやく整ったことを示すのだろう。青年期になった瞬間に精神が得られるわけでなく、一生を通じて精神を獲得していく、それが始まった、準備期間である幼年期が終了したことを物語る、一つの終わりと始まりを表していると考えると、至極納得のいくエンディングだ。

物語の最後は、クロとシロが「楽園」みたいなビーチにいるのだが、そこでクロが「落下」している。いや、最後だけでなく、この映画では、「落下」が執拗に描かれている。

そしてもう一つこのアニメを貫いているのは「目」である。 目とはもちろん神のこと。聖書でも 蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と描かれている。


近づいてみなきゃなかに何があるかわからないこともある、時には痛い目に会わなきゃ真実がわからない事もある。








人間の持つ魔力とは。「ハウルの動く城」解説


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ー言葉という魔法ー

原作ではソフィーは言霊の魔法を持っている設定があります。しかし、映画ではあえてその設定には全く触れずに、ソフィー自身はあくまでも魔力は持っていない普通の人として描かれています。

ソフィーは自ら行動して呪いを解き、幸せをつかみます。魔力を持っていなくても、特別な生まれでなくとも、自分の気持ちと行動次第で人生を切り拓ける、人間は皆言葉という魔法を持ってるという宮崎駿監督のメッセージが込められているんですね。


ー城はなぜあんな形?ー

ハウルの城はあんなに大きな身なりをしてるのに中は意外と狭いです。ハウルは常に美しくありたいと思ってます。ハウル自身が言うようにハウルは臆病のため外見だけでも大きく、美しく見せようとしてるのです。

宮崎駿氏本人がインタビューで

「説明は全部はぶいてある」 と語っているのだそうだ。そのためちょっと難解なんですね。


ー髪の毛が星の光に染まるー

髪の毛が星の光に染まっていると言っています。これはソフィーがハウルの過去に行き、流れ星とハウルの関係を知ったことの表れ。ソフィーがカルシファーとハウルの契約の秘密を解いたことの表れでもあります。そして、髪の色が変わったのは成長の証。ただ単に元通りに若返るのではなく、ソフィー自身が生まれ変わったことの表れでもあるのです。


ーソフィーの見た目が変わる理由ー

映画の中でソフィーの発言はややネガティブさが目立ちます。原作ではソフィーが魔法の力を持っているということを自覚していません。しかし映画の中では曖昧に描かれ観る人に委ねるような形になっているのです。自分の思い込みによって悪い方へと人生は動いてしまう、悪い魔法をかけられたからだけではないということを示しています。つまりあれは呪いというよりもソフィーの自己暗示のようなものなのです。なので眠っている時や美しい花畑で心躍らせている時は、ソフィーの意識が自己暗示から遠のいているので若い姿のままです。しかしソフィーが自分の外見を意識したりすると、途端に老婆の姿になってしまいます。


ーなぜ、ハウルはソフィーに惹かれたのかー

契約によって心臓がないハウルだからこそ、生命を吹き込む力を持ったソフィーに惹かれたのです。


ーハウルはどうして、ソフィーの実家に引っ越しをしたのかー

単純にソフィーを喜ばそうとしたわけではありません。
実はソフィーの呪い(自己暗示)を解くため。それまで、ずっと老婆だったソフィーが、引越しを堺に少女の姿に戻るのが分かります


ー何故、ソフィーはハウルなしに引っ越しを強行したのかー

自分たちがここ(ソフィーの実家)にいるから、ハウルは闘わなければならないと誤解したためです。ピンチになればハウルが戻ってくると思いました。でも本当は、ハウルは、ソフィーの自己暗示を解く「ソフィーの実家」をなんとしても守りたかったのです。
それに気づいたソフィーは、引っ越し後すぐにハウルの元へ戻ろうとします。


ーハウルはなぜ化け物になるのかー

契約してカルシファーに心臓をあずけたハウルですが、あずける時間が長いと最後には星の子に完全に心を支配されてしまいます。ただの操り人形の化け物となってしまうのです。それがあの姿です。
一方、星の子も、契約した相手が死ぬと自分の命もつきるため、次々と乗り移る相手を探すことになります。まさに悪魔です。星の子は、流れ星となって地上に降りてくると、そのまま死んでしまいます。ハウルは、地上に降りてきてすぐに死んでしまう星の子を気の毒に思い、生を与える契約をしました。そのためカルシファーは感謝しています。

「ハウルの心臓をカルシファーに与えることで、カルシファーの力をハウルが得る」これが彼らの契約の秘密です。


ーハウルはなぜ、恋をたくさんするのか?ー

ハウルは多くの恋をし、成就した途端に気持ちが引いていってしまいます。

そこには、カルシファーとの契約があるためと考えられるのです。自分の心臓を探し続けるが故に、多くの恋をして心を取り戻したいハウルの行動が浮気性という行動に繋がっていくのです。


映画版でもっとも曖昧にされているのは、「ソフィーが実は魔法を使え、生命を吹き込むことができる」という小説版の設定です。映画では、この設定がなくなったわけではありません。むしろ、ソフィーが生き物を蘇らすシーンは大体入っています。カカシのカブ、契約を破ったカルシファー、同じくハウル。

注意深く見れば、映画でも小説同様に、カブにしろカルシファーにしろ、ハウルにしろ、ソフィーは、彼らを復活させるための明確な言葉(呪文)を使っているのです。

ソフィー(カブに対し)「逆さになっているよりましでしょう。元気でね。」


ソフィー「心臓をハウルに返したら、あなたは死んじゃうの?」

カルシファー「ソフィーなら平気だよ、たぶん。おいらに水をかけても、おいらもハウルも、死ななかったから。」

ソフィー「やってみるね。どうか、カルシファーが千年も生き、ハウルが、心をとりもどしますように。」


ー言葉の力とはー

宮崎監督はこう言っています。

「言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「かえりたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処に行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産み続けるかの道しかなくなる。逆に「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉は限りなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受け取られているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。

世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。」




風立ちぬの主人公はトンボが成長した姿として描かれたそうです。







人間に生まれたからには愛することを忘れてはいけない




ーテーマー

神(ダイアナ)は人間を愛することで人間を守り愛が生む凄まじいパワーに気づく。

女性解放運動、女性差別、第一次世界大戦、ギリシャ神話を含んだ深い話である。


ー理想と現実ー

2001年宇宙の旅のようなキラーエイプ理論(猿は猿を殺すことで進化する)を否定し人は人を愛すことで人間になりお互いを守ると信じる。理想でも絶対に諦めないという決意が歌から、ダイアナから伝わってくる。

しかし理想は現実に勝てない。現にこの後第二次世界大戦、ベトナム戦争が待っておりダイアナはおそらく戦ったのだろう。でもいつの日か愛し合える日が来ると待っているのも間違いない。


ー原作ー

女性解放運動を訴えた原作者は1941年にコミックのワンダー・ウーマンを発案した、ハーバード大学の心理学教授ウィリアム・マーストンと、夫と同じ心理学者の妻エリザベス、教授の元生徒のオリーヴ・バーンを描くもの。2人の女性は、ワンダー・ウーマン像に大きな影響を与えた。また、女性2人は同性の恋人同士で、それぞれ教授との間に子供を持ち、教授の死後は一緒に子供たちを育てた。さらに今回配役されたガルガドットはイスラエル人。そして彼女は以前徴兵されていたこともあり今作につながるのだ。


ー人類を愛するようになるまでー

アリスとの戦いや母親からの忠告で人間の愚かさを知り混乱を実際産んでるのは人間だと教えられた。しかしダイアナは人類は愛すべきものだと抵抗する、


ーローマの休日との関係ー

『ローマの休日』には、お姫様と新聞記者のラブロマンスの裏側に戦争というテーマが隠されている。ヒロインは初めて人を愛することで、戦争で愛する人を失った人々の悲しみを初めて実感し、欧州の平和の実現という王女としての使命に目覚めます。

アイスを食べて感動するシーンはローマの休日へのオマージュです。


ー女性解放運動ー

当時女性たちのこの運動は石を投げられ、いじめられ、警察に殴られていた。ダイアナは今作で戦争最前線に送り込まれ戦闘したシーンは監督が最もこだわったと言う。敵陣に攻め込むときハシゴを登った、これは社会進出を表している。その後のダイアナは当然相手の弾丸おを受けながらも一歩づつ着実に進んで行く。これはまさにいじめられながらも諦めなかった女性たちを象徴し賞賛している。


ーワンダーウーマンは、スーパーマンと違って、なぜ人を殺すのか?ー

アマゾネスは兵器として殺すために神に作られ、ダイアナはさらにアリスと兄弟である。


一味違う恋愛ー

ダイアナはセックスはいらない、スティーブは強くも頼り甲斐があるわけでもなく誰かと一緒にすんだり幸せになったことがないと打ち明けます。それを見たおそらく全性愛のダイアナは慰めるために抱いてあげたのです。


ー主題歌「To be Human」Siaー

映画のストーリーやテーマと密接に関係した歌詞で、

人を愛して、人に絶望して、でも愛を心に秘めて、あきらめずに戦っていくダイアナの決意が歌われています。

一部紹介

「人間らしさとは愛すること

どんなに耐え難い時でも

私は決してあきらめない

人は人を愛してこそ人

どんなに失望しても

私は絶対あきらめない」

男性が歌う「ああ、今、君は遥か遠くて僕の腕は届かないけど」というパートがある。これは犠牲になった主人公スティーブである。


ー戦没者の写真の中に実在の戦争詩人がいるー

ラストダイアナが戦没写真に向かった時スティーブのすぐ下にジークフリドサスーンという詩人の写真がある。この詩人は「死すべき定めの若者のための賛歌」 を書きその一行めに「どんな弔いの鐘があるというのか 家畜のように死んでゆく者共に?」とあります。馬を虐待することで兵士が殺される残酷さを表したりする今作に影響を与えたため写真を使ってるのでしょう。


ー戦いの神アレスの目的ー

アレスは「人間の残忍性は神の支配と導きよりも遥かに強大だ」という主張を持っている、神を滅ぼした人間への復讐として混乱を招きます。そのためアレスは戦争を激化させる助言をあくまで囁く程度に留めておりあとは人間に任せています。


ーワンダーウーマンの装備についてー

銃弾も跳ね返す腕輪:これは以前女性は奴隷として働かされていた。その時はめられた手枷のことを忘れないため。

ヘスティアの縄:ワンダーウーマン原作者は精神科医であり嘘発見器の発明者であるため


ちなみに母の語るダイアナは粘土を作って命を吹き込んだなど神話はウソで、ダイアナが読破した「クーリオの肉体的快楽」とは現実にはありません原作のみで出てくる空想の哲学者です。