今生きている世界は現実なのか。時間と夢について考えさせられるとても哲学的な傑作映画。



ー胡蝶の夢ー
この物語でまず押さえておきたいのが胡蝶の夢です。

胡蝶の夢とは、夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話がベースになっています。今生きてるこの現在は本当は夢で死ということが本当は夢から覚めることなのかもしれない。


ーラムの夢ー

浦島太郎のようにあたるやラム、その仲間たち、あたるの家、近くのコンビニは現在を流れるもそれ以外はものすごい速さで年を取り古びていく。

現実の世界においては、コンビニチェーンが正常に稼動するには、その陰に無数の人々が携わる労働というものがある。しかし、それらは消費者である僕らにはほとんど見えない。つまりラムにとってはコンビニが常に在庫があったり新聞が届いたりすることは当たり前だったということ。


ー異変ー

劇中、「3階建ての校舎が4階建てになっている」という旨のセリフがあるが、このセリフの直前まで校舎は2階建てであり、エンディングでも2階に戻っている。これは記載の間違いではなく、異変に気づいた者もまた異変の中にいるという「メタ虚構」の世界を表現している。


ー今現在が夢だったらどうする?ー

劇中のセリフで今後の生き方について語っています。

「時間は人間の意識の産物。世界中に人間がいなかったら時計やカレンダーに何の意味があるっちゅうねん。」

「まぁね、夢やから現実やからゆうて、所詮は考え方ひとつや。

なら、いっそのこと夢の中で面白おかしく暮らしたほうがええのとちゃいまっか。」





本日は天才音楽家モーツァルト!…に嫉妬していた凡人の映画です😅




世の中には天才より凡人の方が多い。天才には勝てない、才能がないと思った人に自分にはどんなことができるか教えてくれる作品。



テーマ

美しい音楽と映像、そして天才に限りなく近い凡人が努力しても天才には勝てない凡人の嫉妬と苦悩の末の悲劇を描いた良作でした。そして『アマデウス』は、天才の崇高さと凡人の可能性…あらゆる人間に与えられた能力に対する壮大な賛歌でもありました。そして単純に凡人は天才に勝てないというだけでなくそれでも生きていくことの切なさ、哀しさ、そして素晴らしさを描ききれています。


タイトルの意味は?

「アマデウス」とはモーツァルトのミドルネームです。しかし同時に、ラテン語で「神に愛される」という意味でもあります。題名がモーツァルトでないのは彼が神に愛された人間であるという要素が詰まっています。ただモーツァルトを描いているようで、実はサリエリの物語でもある。モーツァルトにスポットを当てているように見せながら、実は2人の音楽家を対比させて描いているのだ。天才の話だけではあまりにも感情移入がしづらいため追い越すことのできない存在であるモーツァルトを前に、様々な方法で挑みつづけるサリエリは、「努力型の秀才」であることの悲しさを見せてくれ、そのためこの映画ではモーツァルトではなくサリエリに感情移入して見てしまうという人も多いのではないでしょうか。


天才とは

あらゆる分野の天才と呼ばれる人も、その才能は圧倒的で、ライバルたちにとっては脅威であり、残酷なものになります。天才とは、努力ではどうやっても差が埋まらない人の事をいうんだと思います


違う道での天才になれる

当時の音楽家達のパトロン的存在であった貴族階級にはモーツァルトの音楽は奥が深過ぎて理解できない代物として描かれている。そんな中サリエリだけはモーツァルトの音楽の最高の理解者であった。モーツァルトとは異なる凡人達の中にも、やがて彼らを見出すこととなるサリエリのような天才的な鑑賞者が埋もれている。


努力の天才でありそんな努力家の彼だからこそ最後までモーツァルトの音楽を理解していた。


天才モーツァルト

サリエリは身分を明かさぬまま、レクイエム(葬送曲)の作曲を彼に依頼する。それはやがて自分が殺す相手に自分自身のレクイエムを、そうとは知らずに書かせ忙しい彼を追い詰め仕事をさせようという残酷な試みだった。

そして二人の共同作業は愛情が芽生え、モーツァルトの神々しい音楽が誕生する瞬間を目の当たりにする体験であった。彼は最高に感動し興奮しただろう。

神童と呼ばれ神に愛された男が一般人と同じように墓に放り投げ出されたのは事実であり驚きです。


モーツァルト作品の題名の後に‘K’と続いて番号がよく記してあるのは、曲が作られた順番を明確化すると同時に、ケッヘルの偉業を示すためだろう。番号は1から626まであり、最後のK.626こそが作中で死に際のモーツァルトが命懸けで作曲したレクイエムに該当する。


モーツァルトのように音楽だけずば抜けて天才でその他は幼稚で何もできない人というのは本当にいるらしく。実際にこれと全く同じ状況の第2のダヴィンチと言われる女の子がいたらしいが他の勉強を教えたところ絵の才能が消えてしまったとのことです。他にもジミー大西さんのように絵に類まれなる才能を持ちそれ以外は衰えている。絵や音楽に脳が侵食されてる天才は実際にいるみたいです。



〜豆知識〜

おじいちゃんになったサリエリは特殊メイクだそうで、素晴らしい老け顔です。

モーツァルト役のトム・ハルスはピアノを猛特訓し、劇中の多くの場面で代役や吹替え無しでピアノを弾いている。指揮法についてもネヴィル・マリナーのトレーニングを受け、マリナー曰く「たぶん彼が音楽映画の中で最もちゃんとした指揮をしていると思う」とまで言わしめた。


・劇中のモーツァルトは下品な高笑いをするが、これはプラハのある高貴な女性がいとこに出した手紙「モーツァルトのケダモノのような笑い声を聞いて卒倒した」が元ネタ。さらに当時はモーツァルトや音楽家は家庭教師として食べていくしかなかったそうです。

・映画の冒頭でサリエリは神父に身の上を語り始めるが、その時点ではまだ窓の外が明るい。映画の進行と共に暗くなって背後のロウソクも短くなり、映画の終わりには再び外光が戻る。そしてラストは神父のヒゲが少し伸びている。つまり、サリエリの告白は一昼夜も続いたということ。

・この映画には出てこないですが2台のピアノのためのソナタはモーツァルトが生徒に教える為に作られた曲ですが、自ら音楽の楽しさを思い出す為に作られた曲だそうです。

世界的社会現象を起こした君の名は。ストーリーではなく新海監督の意図やテーマについて解説します。




監督の伝えたかった事


1.知るという事

知ること、知識をつけることはとても感動的で重要なもの。歌の歌詞にもあり監督が本当に伝えたかったことというのは震災や被害のあった地域、事件などについて知るべき、義務であるんだということだと思った。新海誠監督の作風である2人が出逢えるのか出会えないのか運命というものを今回も描いています。


2.運命

ここで表してる運命というのは時空を超えて未来、過去での出会いということもあるが、実際伝えたかったのはずっと何かを探し続けてる。一目会った瞬間に前にあったかのような運命的な気持ちにさせられる相手がいる事。運命って結局そういう事で、あった瞬間にこの人を前から探していたんだと実感できる人との出会いのことだと思う。そんなことをこのラストで語っているのだと思う。

これは監督自身が言っていたことだが今日の自分が明日と同じであるという連続性。記憶があるから明日も自分は自分なんだと理解できる。


新海監督は過去の喪失感を描く。他作品でもそうだが今作の名前を忘れそうになる設定はそう言う事で、現実でも1番大切な思い出すら忘れそうになる。喪失する儚さ。



3.震災について

震災への考え方やイメージが大きく変わった。というのもただ可哀想や辛いだけじゃなくもっと壮大な何かが埋まってるのだと。なぜならそこには人の人生があり、伝統があり、街があったから。前よりももっと身近に感じることができました。


2回見ましたが2回目の方が色々と伏線に気がつくことができ、感動し泣きました。後半の盛り上げ方は本当に上手だと思いました。

小野小町の古今和歌集

「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」

(あの人のことを思いながら眠りについたから夢にでてきたのだろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかっただろうものを。 )

から着想を得たということです。


4.喪失

二人がお互いのことを忘れていく。

実際我々が夢を見た時時間が経つにつれどんどん忘れていきます。そのような事を暗示しているのでしょう。

さらにこれは携帯でつけていた日記が消えていったり、劇中で語られているように夢は現実に戻ると鮮明さを失っていき記憶がなくなっていくというところから来ていると思われます。


5.結び

みつ葉は巫女であり単なる夢ではなく、未来の危険(隕石の落下)を人に知らせるための巫女の特殊能力だと考えられます。その力が宿り未来の瀧くんと入れ替わったんだと思います。


髪を結んだり「結び」が様々な場面で強調されてますがこれは神道の考えでは紐の結び目に神が宿るとされていたため何度も出てきています。



彗星を見上げてる画、自分は相手のこと知ってるけど相手は自分のこと知らない、でも名前だけは伝えておくなど(ハウルの過去を見に行った時)ハウルのシーンで似ているものがあります。

[夢見るための犠牲と希望]


本日は大好きなミュージカル映画ラ・ラ・ランド!!

セッションやファーストマンの監督作品です。








「成功するためには過去に固執するのではなく未来を求め続ける」


ーミュージカルが苦手な人はー

ミュージカルで急に歌い出すのはばかばかしいと思う人や苦手な人は、あの歌い出すのは「その登場人物のその時の心情を音楽で表した形」として見て頂ければ見やすいと思います。

もしくは音楽を観てると捉えるのもいいかもしれません。どんな音楽にも必ず意味があって作られてるからです。


ちなみにミュージカルの原型はオペラであり全部歌です。よって急に歌い出すのではなく、急に普通に喋り出す事がおかしいのです。


ー解説ー

暗示しているもの

様々なメッセージが様々なシーンに取り入れられてました

LAの名物「大渋滞」は、いわばハリウッド=成功に続く道の困難さを表しているのでしょう。実際、映画冒頭で踊りだした人たちは、ミア、セバスチャンも含めてみんな若者ばかりでした。そして、エンディングでやはりミアは渋滞に捕まるのですが、冒頭と違うのは、そう、脇に出口があったことです。家路に向かうミアが、あっさり脇道から渋滞を抜けていくシーンは、ミアがすでにハリウッドでの大成功を収めたことを暗示していました。


それ以外にも、二人の関係が深まり、現実というカベにぶち当たるに従って、ビビッドな服装が地味になっていったり、2人が食事をするシーンで、メインディッシュが焼け焦げてしまうトラブルが二人の行く末を暗示していたり、心情の変化によって服の色が変わったり、様々な工夫がありました。


ーオマージュー


ロシュフォールの恋人、雨に唄えば、赤い風船、トップハット、シェルブールの雨傘、ニューヨークニューヨーク、巴里のアメリカ人などオマージュが沢山でした。


例えばラストの回想シーンの派手なダンスシーンなんてまさに巴里のアメリカ人のラストのようですし、ストーリーはニューヨークニューヨークそのままです。


ーラストー

2人はお互いの夢に没頭し会うのをやめ成功したのだろう。成功したのにもかかわらずどこか切なさが残る。でもどこかこれで満足したような顔もしてる。夢を追う人への現実と希望を見せられた気分でした。夢を追うためにはいろんな犠牲が必要。そして夢を追ってる時だって幸せだって事。今回もお互い別れてしまったが幸せそうだった。

いわば、物理的な面では、完全に彼らは「アメリカン・ドリーム」的な夢をつかんで大成功したわけです。それでも、ジャズバーを後にするミアを見送るセバスチャンの寂しげなラストシーンの表情が、忘れられません。


恋をし夢を追う序盤のシーンは色とりどりだったものの後半につれくすんだ色になっていく。


ーLa la landとはー

La la landのlaはいわゆるロサンゼルス。ロサンゼルスのことを別名ララランドどといいロサンゼルスにはスターになる日を夢見た若者が勢ぞろいしてる事から、彼女はララランドに住んでるのねというと夢見がちな女の子という意味になる。







恋物語の裏にあるのは戦争と1人の女性が成長するストーリー。


「永続を信じます。人と人の間の友情を信じるように」

I have every faith in it... as I have faith in relations between people.


オードリーヘップバーンを大女優にした名作であり脚本家トランボ、赤狩り、戦争、EUなど深い内容の映画である。





ーテーマー

ラブストーリーの裏に、自分の自由を欲してた主人公は人を愛すること、戦争で苦労してる人達を見て自らの自由を犠牲に人類を守ることを決める。シンプルな成長ストーリーだが心打たれる。


さらには戦争というテーマも隠されています。ヒロインは初めて人を愛することで、戦争で愛する人を失った人々の悲しみ、祈りの壁で戦争で苦しむ人々を初めて実感し、欧州の平和の実現という王女としての使命に目覚めます。

個人の幸せを取ってもよかった王女は自分よりも人類を愛し人類のために働くことを決意する。


ー裏テーマー

戦後のヨーロッパをどうするか。

今作は第二次世界大戦が終わってから8年しか経っておらず敗戦したイタリアは特にひどく廃墟のようになっていた。1953年まさに同時刻ソ連はヨーロッパの東側を仲間に入れ資本主義の西側と対立させようとしました(西ドイツと東ドイツがわかりやすい例です)。せっかく戦争も終わり仲良くしていこうとなってた時にこの東西冷戦が起きたのです。

王女がヨーロッパ各国をハードスケジュールで回っていたのは戦争を続けてきたヨーロッパに対しヨーロッパを一つの国としてEUを作り仲良くしようという運動でアン王女は嫌々回っていました。戦争で苦しんでる人を知らなかったからです。このテーマがローマの休日の裏に隠されてます。




ー主人公の成長ー

長蛇の挨拶で靴は脱ぐ、寝巻きに対して文句は言う、ハードスケジュールに駄々はこねるで最初は子供だった主人公。外に出て主人公の記者と駆け落ちしてもよかったのだが祈りの壁を見てから自分の責任感に気づき帰ることにします。冒頭の舞踏会とラストを比べると成長が一目瞭然です。ミルクとクッキーを断る事で成長したことを表し、舞踏会とラストは“対”の関係にあります。舞踏会では来賓がアン王女の前に出て挨拶をしますが、記者会見では関係が逆になり、アン王女(オードリー・ヘプバーン)が記者達に自ら前に出て挨拶をします。




ー脚本ダルトントランボが作品に込めたおもいー

トランボは第2次世界大戦後に赤狩り(共産主義者、関係者を社会から追放する運動)の犠牲になってハリウッドから追放され、仕事を続けるために偽名を使って映画『ローマの休日』などを執筆した脚本家である。

当時資本主義のアメリカと共産主義のソ連は関係が悪化してました。そこで国は赤狩りいわゆる敵国ソ連の思想に近い人の抹殺を開始します。その犠牲にあったトランボは議会侮辱罪で10ヶ月間刑務所にも入れられます。偽名で何作品も作っていたトランボは「黒い牡牛」で再びアカデミー賞を受賞してしまいます。偽名がバレるのも時間の問題だと思ったトランボは自らテレビのインタビューで告白します。ハリウッドのブラックリストの事や家族に迷惑をかけている現状を改善するためです。


上記の内容を見てみるとアン王女の国同士の親善関係についての質問の答え「永続を信じます。人と人の間の友情を信じるように」と言う言葉がすごく深い意味があることに気がつきます。


ーなぜハリウッドでの赤狩りが頻繁に行われていたかー

共産主義=弱い者を助ける=当時のハリウッド映画だからです。しかし当時は差別されていたユダヤ人が映画を作っていました。そんな弱い自分たちを守るために差別するのカッコ悪い、弱いものを助けると植え付けるために取った映画が共産主義と勘違いされ赤狩りにあったそう


ーワンダーウーマンとの接点ー

人を愛し人を守るために立ち上がった女性の物語として非常に似ています。

ワンダーウーマン主題歌「To be Human」Siaはすごくローマの休日とも合います。


「人間らしさとは愛すること

どんなに耐え難い時でも

私は決してあきらめない

人は人を愛してこそ人

どんなに失望しても

私は絶対あきらめない」

男性が歌う「ああ、今、君は遥か遠くて僕の腕は届かないけど」というパートがある。これは王女として遠くの存在になってしまった記者役のグレゴリー・ペックの気持ちとして一致する。
















7つの大罪を元にした事件が次々に起こる。そしてそれを追う2人の刑事のサスペンス、ミステリー映画。



ストーリーとしてかなり面白くて、まさにこの事件を起こす犯人は狂気そのもの。でも後半のシーンからもわかるようにこの犯人の言ってる事もどこか賛同できる。狂気の魅力は正義や人々の偽善を暴くからこそ魅力的なのだ。


七つの大罪「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憤怒」、「怠惰」、「高慢」、「嫉妬」

嫉妬と憤怒以外の5つの罪に対する罪人は殺された。そして憤怒による罪人はミルズ刑事を、平凡な生活に嫉妬した罪人はケヴィンスペイシー自信を投影させ犯人の目標は達成した。実際には7人殺してないと思われてるがそもそも犯人の目的は殺しではない。罪人に罪を負わせることなのだ。だから高慢の罪人であるモデルの女も電話機を持たされ助かることもできるように計算されていた。そしてミルズ刑事の償いは妻と子の生贄である、そのため妻と子の死が必要だったのだ。

暴食→肥満の男

色欲→娼婦

強欲→弁護士

怠惰→廃人

高慢→モデルの女

嫉妬→犯人

憤怒→ミルズ刑事(その妻、身籠った子の死はミルズ刑事を陥れるための罠)



失楽園との関係

この映画にはミルトンの失楽園も関係してる。純真無垢でバカなアダムとプラピその奥さんとイブを対比して描いてる。


フィンチャーいわく完璧の作品で続編は無いと言うように、旧約聖書の7つの大罪は本来9つあり残りの2つを当てはめると真犯人が導き出される。

その正体がわかったとき、フィンチャー監督の真意がわかる。


エンドロールの謎

オープニングではケヴィンスペイシーの名前は出て来ないがエンドクレジットでは一番最初にケヴィンスペイシーの名前が出てるところがまた粋である。

本日は伝説のバンドQueenの一生を描いた映画ボヘミアンラプソディについての解説・・・というかQueenと歌詞の内容の方がおおいです!🤣

それではどうぞ✋✨





フレディーはインド生まれで前歯もでてる、様々な挫折と屈辱を味わい孤独だったフレディーマーキュリー。しかし誰よりも人を愛しなにもしてない時間や一人でいる時間が嫌だった。


そんな人生は彼の歌すべてに詰まってる。

「ボヘミアンラプソディー」mama, just killed the manのmanは自分の事であり苗字も名前も変え昔の自分を殺し生まれ変わったことを言っている。we are the championでも人生を語っている。


この曲は劇中で何度か流れるが、注目したいのは、クライマックスに配置されたライブ・エイドのシーン。この時、歌詞が字幕で表示されるのは、単に観客に歌を楽しんでもらいたいからだろうか? いや、この歌詞を登場人物のセリフと解釈してみてはどうだろうか。

ボヘミアン・ラプソディ

冒頭で示される通り、フレディ一家、つまりバルサラ家は(彼らはザンジバルからの移民であり、フレディの本名はファルーク・バルサラという)厳格なゾロアスター教徒であった。フレディの父の態度に顕著だが、ロックミュージシャンになることやゲイであることは、彼らにとってはほとんど罪に近いことだ。そもそも当時のイギリスは同性愛をようやく合法化したばかりであり、世間から受け入れられているとは言いがたかった。たとえばフレディが記者会見するシーンで、記者たちはフレディを糾弾するかのように彼のセクシャリティについて質問しているが、あれは人殺しに対する態度に近いだろう。

ボヘミアン・ラプソディ

そのような背景を考えると、「Bohemian Rhapsody」の歌い出し「ママ、人を殺してしまった」は、非常に深い意味を持った言葉のように聞こえてくる。ゲイであることは罪であった。それは当時のイギリスにおいて、あるいはバルサラ家にとって、人を殺すことと同じくらい重い罪であった。そのことをフレディは理解していた。

歌はこう続く。

ママ、悲しませるつもりはなかったんだ

つまり彼は、本当の自分でいたいだけだった。それなのにーーという悲痛な思いが、このセリフ(歌詞)からは読み取れる。

そして、このライブシーンの直前に挟まれる家族との再会と、ライブ中に幾度となくカットバックされる、自宅のテレビでライブを見ている家族の表情。これらの映像を通して、この一家が本当に和解したことが示唆されるわけだ。だからこそ映画を観ている我々は感動する。

ボヘミアン・ラプソディ

そうであれば、「Bohemian Rhapsody」の歌詞を字幕で表示させることは、明らかにこの映画の主題と密接に関わっている。歌詞をまるで登場人物の心のセリフのように見せることで骨太のドラマが完成した、ひとつの好例である。



















解説の前に!!まずは自己紹介を🙇‍♂️
映画に人生を変えられ様々な事に挑戦した結果肩書きが多くなってしまったがのです🎬✨

一番多い時は年間約1000本をみて一本一本2時間ほどかけ徹底的に調べた結果映画の奥深さがわかったので解説しちゃいます🤩

それではドクタースリープの前作であるシャイニング解説をどうぞ✋✨



一言でいうと・・・

「幽霊を信じるものと信じないものどちらにも納得できるよう練られた映画」



原作シャイニングはホテルに悪霊や幽霊が住み着いてるという話でありますがこの映画はどちらでも取れるように作られているんです

社会や家族から孤立していった男が段々狂っていくサイコ・サスペンスとして読める,つまり悪霊が本当に存在するか、それともそれは全て主人公ジャック・トランスの妄想であるのかと取れるようにしてます。


実際にキューブリックは劇中の霊現象は全て心理的病気による妄想や幻想として説明がつくように作った。だから霊を信じていないものでも楽しめるだろうと言っている。




スティーブンキングが嫌う理由

ある日キューブリックから電話がかかって来たそうで「幽霊信じてるの?てことは死後の世界があるってことだよね。それは楽観的だ」と信じてないことを表明したそうです。なぜ楽観的なのかというと、本当に恐ろしいのは幽霊がいないこと。霊魂も神もあの世もなくて、死んだら何もかも消滅すること。だから、死は最大の恐怖なのだ」


それともう一つ原作は父親は家族を愛しキング自身を描いてます。しかし今作では家族愛はないように描きました。そこがキングを怒らせました。



なぜこの映画が怖いのか

キューブリック自身幽霊を信じておらず劇中も全て主人公の妄想など説明がつくように撮られていた。

ただそんなキューブリックだが1つだけ幽霊のシーンを入れる。食料庫に閉じ込められたニコルソンが出れたシーンは幽霊によって出されている。ミスリードです。全部辻褄が合う説明が出来ないようにわざとやっている。その方がより深みが出る。

これは観客にやっぱりこの屋敷には幽霊がいるのか?と疑問を持たせるためにしたという。幽霊はいる、いないとはっきり決めつけた映画よりもわざとこのような不合理なシーンを入れることによって観客にどっちかわからない状況にさせることが最も不安になり最も今生きてる現実に近づくのだそう。キューブリックはこの映画で幽霊はいないと断言するのではなくその答えを観客に決めさせました。


脚本家ダイアン・ジョンソン

シャイニングの脚本を共に執筆したダイアン・ジョンソンは「影は知っている」で有名な作家です。これは「私」が主人公の一人称小説。無言電話の連続に始まり、アパートのドアが壊され、車のタイヤが切り裂かれる。誰かが「私」を殺そうとしていると綴られていくが話が進むにつれこれは実際にこれを書いてるこの主人公が狂ってる、妄想なんじゃないかと気がついていく。

この構造はまさにシャイニングにつながっていきます。



浴槽の女、双子の女の子

キューブリックは幽霊や神を全く信じていないため、シャイニングは幽霊は存在しないという基で作られた。息子のアザは父親で息子は虐待する父をかばい女の人がやったと嘘をついた。さらに父親は自分がやったということも覚えてないぐらい精神が崩壊していた。237号室が危険と注意されたのは未来が見える黒人が持つシャイニングによる予知。

血の海や双子が見えるのはダニーの予知能力で過去や未来を見ているだけ。しかしキューブリックは特殊能力だけは信じているためシャイニングを使って過去の双子を見せました。浴槽の女は精神崩壊したジャックが息子の言われたことをベースに作り出してしまった、もしくは幽霊。




犬の着ぐるみを着た男とタキシードの男

原作によるとタキシードの男は元ホテルのオーナーだった億万長者。犬男と仮装乱行パーティーを抜け出して部屋でホモ行為に及んでいた幽霊。キューブリックにとってパーティーとは「つまらないからこっそり抜け出してエッチな事をするもの」という認識があったのか、パーティーを抜け出してお楽しみするということをアイズワイドシャットでもやっている。

じゃあなぜそれを妻ウェンディが目撃したのか?

それは息子ダニーの持っているシャイニングは母から遺伝されたものと黒人ハロランから説明がある。そのため過去を見れたのだ。




ラスト

ラストについては色々な解釈がありますが、自分的には二つあり幽霊屋敷として描かれ取り憑かれていた場合、ジャックは死んだ後幽霊たちに仲間入りし永遠そこで暮らしていることを表している。もう一つはジャックが劇中でデジャブが起こっていると言っていましたが実はジャックはあの写真の男の人の生まれ変わりであり自分と似ていながら幸せそうに笑っている彼に嫉妬し現実逃避の妄想に火がついてしまったんだと思います。いわばジャックがおかしくなった種明かしの写真だったと解釈できるわけです。さらにあの写真は1921年とかなり古いのも理由の一つです。


幽霊=楽観的と考えるキューブリック(理由はスティーブンキングが嫌う理由にて)は幽霊を信じる人たちへハッピーエンドを残しました。幽霊になり魂はその屋敷にとどまっていることで一番怖い消滅を回避したラストにしました。





ジャックの生まれ変わり論についてもう一つ裏付ける証拠がある。


仏教的解釈では、因果の道理によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの世界を生み出し、その世界で何度も生まれ変わりを続ける(=輪廻転生)。そう考えるとジャックは、「邪悪な意思を持つホテルの管理人として、何度も生まれ変わりを果たしている人物」とみなすことができるのだ。

ジャックが因果応報によって、何度もホテルの管理人として生まれ変わっているとしたら、彼が犯した罪は何なのだろうか? 筆者の暴論かもしれないが、「双子の娘と妻を惨殺したのは前世のジャックで、その因果で何度もホテルの管理人として輪廻転生を繰り返している」のではないか?

ジャック・ニコルソン出典元:YouTube(Movieclips)

それを裏付けるシーンがある。

支配人のアルマン(バリー・ネルソン)はこのホテルで一家惨殺事件があったことを説明する際に、その加害者である管理人の名前をチャールズ・グレイディと語っていた。しかし、グレイディがジャックと実際に会話するシーンでは、チャールズではなくデルバート・グレイディと名乗っているのだ。しかもグレイディは、ジャックに「あなたこそ、このホテルの管理人です。ずっと昔から」と語っている。これは何を意味するのか?

さらにこのシーン、よく見るとちょっと不思議なショットが挿入されている。

最初カメラは左にグレイディ、右にジャックという構図で捉えているのだが、数秒だけ左にジャック、右にグレイディという配置が反対になったショットが差し込まれているのだ。

映画では通常、2人の人物が会話するシーンではイマジナリーラインという仮想の線が引かれ、その線を追い越すことはない。会話する2人の人物の位置関係が逆になってしまうと、どちらがどこにいるのか観客が混乱してしまうからだ。しかしこのショットでは、明らかにイマジナリーラインを意図的に越えている。

イマジナリーライン

これは、ジャックがグレイディ自身であることを指し示しているのではないか?

かつてのグレイディと、現在のグレイディ(=ジャック)が会話していることを映像的に表現するために、キューブリックが意図的にこのような演出をしたのではないか、と勝手に推察しております。