沖縄を訪ねることが叶わずにいる
病気を理由にしたくないが
そんなことで行けていない。
私は親からあまり大切に扱われてない
だから苦しいと亡くなった祖母宅を頼った
小学校の教員だった祖母
教員時代の同僚だった人の娘さんに
あたる人が担任の時もあった …
じつに冷たい教員だった。
祖母がいたグループホームに
教え子がいて良くしてもらったそうだ
理由は母子家庭で給食費が払えずに
苦しかった時に空の封筒を提出なさいと
祖母が言ったことに恩を感じてるそうだと
「当時はね他の教員だってしてたのよ」と
笑って話してた、明るいばあちゃんだった
祖母は戦争未亡人である
戦後に苦労して教員免許を取得した。
沖縄で戦死した祖父が女学校の先生
だったようで、叱ることが1度もない
優しい人だったらしい
沖縄の防空壕で病死したとずっと
聞かされたのだが、祖母の口から
違ったことを聞かされたことがある
帝国陸軍から自衛隊にいたるまで
偵察の事を斥候任務と言う
沖縄で米軍の艦砲射撃が止むのは
深夜3時ごろから早朝5時の間くらい
祖父はその時間帯に斥候を兼ねた
食料補給の任に出て米軍の上陸部隊に
捕捉され銃撃戦ののち
正面の胸に銃弾を浴びて亡くなったと。
祖父が戦死したころに祖母は半ば
狂ったかのように題目を唱えてたらしい …
のちに熱心な身延山信仰をした祖母の
心の支えは、この頃からのものであった
幼い頃、読経する祖母の横でよく遊んだ
心根の優しい祖父が撃ち合いの末に
正面から銃撃を浴びたことを立派に想った …
そのことを想って涙が出た日もあった
沖縄の多くの民間の人びとをも巻きこんだ沖縄戦
観光を目的としても怒られたりしないけど
戦死者の名前が刻まれた慰霊碑を訪ねたい。