戦後日本ではGHQのプロパガンダが成功してしまい、多くの日本人は「アメリカが日本を民主化した」と洗脳されています。

これが大間違いです。民主化などではなく、奴隷化でした。その象徴的な事件は、アメリカ軍将兵による日本女性のレイプです。その全体像は不明です。GHQが情報を統制し、検閲して隠してしまったからです。

しかし、占領期日本の地獄の様相を伝える記録はいろいろあります。

沢田美紀という女性の自伝にもそのことが書かれています。

 

 

以下、引用します。

『昭和二十一年六月の末、私は朝のラジオ・ニュースを聞きました。そのニュースは、その暁に生まれた日米混血児第一号誕生の知らせでした。アナウンサーはことばをきわめて、美しく報道しました。これが戦後のアメリカと日本の最初の握手だとか、太平洋の両岸を結ぶ愛の印だとか・・・。しかし、進駐軍は、その後、ふれられたくない微妙な転にふれたということで、このアナウンサーのクビを切ったということです。
(中略)
 この朝のニュースを聞いてからの一ヶ月間は、なんという日々だったのでしょう。私は鵜沼の近くの川に、髪のちぢれた黒い嬰児が浮いているのを見ました。
 歌舞伎座の裏通りで、道ばたの人だかりを肩ごしにのぞいたとき、私の目を光のように射たものは、青い眼を半ばひらいた白い肌の、赤ん坊の死体でした。
 横浜の田中橋の近くで、どぶの中からひきあげられたコモ包みの小さな死体・・・。私はおもわず目をおおいました。
(中略)
 あの戦後の混んだ列車の中で、岐阜の関ヶ原にさしかかったとき、細長い風呂敷包みが網棚から私の手元に落ちてきました。同時に移動警察の警官が二人はいってきました。そして、わたしが網棚へ戻した包みに疑いをもって、近づいてきました。
「包みを開けろ」
 私は自分のものではないし、どういうことになるかも知らずに、わるびれず紫のふろしき包みを開きました。通路まで人が座っていた当時の車中です。私は自分のひざのうえにその包みを置いて開け始めました。
 ところがなんということでしょう。そのなかには二十枚以上の新聞紙につつまれた黒い乳児の死体が入っていたのです。警官たちも、あたりの乗客たちも、私がその死児の母で、始末にいくところと思ったのも、そのときの状態では仕方のなかったことでしょう。
 私の両隣の人たちはかかわりになりたくないために、それが私の荷物でないと知っていても、だれもなんとも言ってくれません。そして、みんなの疑惑の目の中で、私は次の駅で下車させられて、取り調べられるということになりました。私の胸の中は煮えくりかえるような思いでした。私は警官にいいました。「誰か、この列車にお医者さんが乗っていたら、すぐここに呼んでください。そして、私を調べてください。今すぐにでも私は裸になりましょう。さえ、私が生後数日の子を産んだか、産まないか。ここで診察してください」
 私は一世一代の大見得を切って、胸のボタンに手をかけました。このまま誰も止め役が出なければ、今度は私の引っ込みがつかなくなってしまいそうです。だが、神様はすぐ救いの手を送ってくださいました。「沼津あたりで乗り込んだ女の子が、そのふろしき包みをもって私の前を通ったのを覚えています。濃いむらさきの色がまだ私の目に残っています。そして、名古屋で降りたとき、この前を通りました」
 この発言で、私は裸にならずにすみました。』

 解説すると、アメリカ軍将兵にレイプされ、不幸にも妊娠させられてしまった日本の女性たちは、やむなく子供を産んだものの、混血児を育てることができず、捨てるしかなかったということです。

 町の通りや川や海や列車の網棚や米軍キャンプの近辺に捨てられた嬰児の死体がゴロゴロ転がっていたのが占領期の日本です。

 これが「民主化」でしょうか?むしろ、地獄です。

 GHQの洗脳とはこんなものです。だまされる方がバカです。

 この沢田美紀という女性は、孤児院を設立して数千名の混血児を育てました。この件については、すでに書いたことがあります。