アリス・ミラー著「魂の殺人」を読んでいます。

このなかにユルゲン・バルチュという猟奇的殺人者のことがことが書かれています。

終戦直後の1946年に西ドイツに生まれたユルゲンは、16才から20才の間に4人の子供を残虐なやり方で殺しました。防空壕に連れて行き、殴り、縛り付け、肉切り包丁で生きたまま切り刻み、内臓をえぐり出しました。その間、犠牲者の性器をもてあそび、自身も自慰をしました。また、100人以上の子供に傷害を負わせました。



捜査が行われたほか、ユルゲン本人が長い文章を書き残したこともあり、自伝が出版されたほどです。その文章は明晰であり、もともと頭脳明晰な人物だったようです。生育歴や当時の感情についての情報が豊富なユルゲンのケースは、精神分析や犯罪心理学の重要な資料となっています。

ユルゲンの生い立ちは悲惨です。母は出産直後に死去し、父はわかっていません。ユルゲンは病院でしばらく保護されました。看護婦が世話をしたとはいえ、出生直後の重要な時期に養育者との間に親密な関係を持てませんでした。その後、バルチュ家の養子となります。バルチュ家は金持ちの肉屋でしたが、この養父母に大きな問題がありました。

養母は、極端な潔癖屋で、ユルゲンの排便の世話を嫌がりました。まだ赤ん坊だったユルゲンの身体にはいくつものアザがあったとの証言があります。また、養父が友人に語った言葉に、「家内があんまり子供を殴りつけるものだから、もう我慢できない」とか、「わたしが帰らないと、家内が子供を殴り殺してしまうんですよ」とかがあります。実際、おむつを替えていたのは父親でした。

この母親には精神異常の可能性があります。それはユルゲンの証言からわかります。「母がカーテンを開けて竜騎兵みたいな勢いで店から駆け込んでくる。ちょうどそこに僕が立っているとバチン、バチンと顔に、三発喰らわされちまうんです。僕が邪魔だからってね。それなのに、三分後、突然、僕はかわいい坊やってことになって抱いてキスしてあげようって言われたりするんです」

母親は、ユルゲンの入浴時、「手と足は自分で洗いなさい」と言い、その他の部分、性器をも含めて、を洗いました。思春期を迎えたユルゲンの身体を母親が洗い続けたのです。この母親は性的倒錯者だったかもしれません。

養父も問題の多い人物で、ユルゲンの証言によると「子供のころから僕は父の怒鳴り散らすのが恐ろしくてたまりませんでした。僕は父の笑う顔を見たことがないような気がします」となります。

ユルゲンは、家庭内の邪魔者でした。「別に悪いこともしていない時に殴りつけられ、悪いことをした時には放って置かれるというありさまでした」というのがユルゲンの回想です。「両親はいつも忙しい。父はすぐ大きな声を出すんで恐ろしかったし、母ときたら、ヒステリーみたいでしたから」、「どうしてお父さんもお母さんも二十年のあいだ、一度だって僕と遊んでくれなかった」というわけです。

10才になったユルゲンは児童寄宿学校に入学し、二年後、カトリック系の学校に移ります。この学校が典型的な軍隊式の闇教育の学校でした。しかも、生徒内にイジメがありました。「僕は、みんなにぶたれちゃって、まったく一級品のいじめられっ子だったんですからね」というのがユルゲンの証言です。

ユルゲンは友人を上手くつくれませんでした。その理由をユルゲン自身が語っています。「僕はね、学校に行くようになるまで閉じ込められて育ったんです。ほとんどずっと古い地下牢みたいなところに入れられててね、窓には鉄格子がはまっていたし、陽の光も入らない部屋だった。3メートルもある塀もあった。外に出る時はかならずおばあちゃんと手をつないで、他の子とは口をきいちゃいけませんと言われてた。六年間ずっと」

さらに、学校は戒律が厳しく、戒律を破った生徒は折檻されました。過酷な体罰です。さらに、いつも偉そうな説教をしている教師が、夜、気に入った子供を呼びつけ、性的なイタズラをしたのです。ユルゲンもやられてしまいました。カトリックの欺瞞が明らかです。

こんな風に育てられたら、これほど過酷な闇教育が何年もつづいたら、誰だって狂ってしまうでしょう。ユルゲンも狂ってしまい、殺人鬼になったのです。

以下、感想です。

闇教育について、もっと検証され、議論され、その弊害を防止すべきですが、そうした議論がありません。残念です。

こうした欧州の闇教育は、明治期に日本に入ってきました。それは主に軍隊教育の形で入り、各家庭へと伝播していったようです。これは明らかに開国の負の側面です。

さすがに今日ともなれば、ユルゲンが受けたような苛烈な闇教育はないでしょう。問題になっているジャニーズの性暴行問題も一種の闇教育ですね。まだまだ闇教育は息絶えてはいません。その証拠に、若者の自殺、うつ病、ひきこもり、犯罪、薬物中毒などが絶えません。