松岡洋右がおこなった国際連盟での演説について解説してみます。

まずは時系列です。

大正10年(1921) ワシントン会議

昭和3年(1928) 夏、中華民国が日清条約を一方的に破棄
            9月、内田康哉特使が訪米

昭和6年(1931) 満洲事変

昭和7年(1932) 1月、第1次上海事変。
            12月、松岡洋右の国際連盟演説

昭和8年(1933) 日本国際連盟脱退



第一次世界大戦後、パリで講和条約が成立しました。さらに、太平洋方面の安全保障を確立するために大正10年からワシントン会議がはじまりました。このとき海軍軍縮条約などの諸条約が成立しました。このとき内田康哉外務大臣も条約成立に貢献しました。

その後、ワシントン条約をもっとも忠実に守ったのは日本でした。ところが、同条約を守ろうとしない国がありました。それが中華民国です。中華民国は一方的に諸条約を破棄する態度をとりました。日本に対しても、日清条約の一方的な破棄を宣言してきました。

そこで、日本政府はアメリカ政府に訴えました。ワシントン条約を主導したアメリカこそが、条約を守ろうとしない中華民国に厳重注意すべきだと訴えるためでした。内田康哉特使がアメリカ国務長官と会談しました。しかし、不得要領でした。これが昭和3年です。

日本政府はさらに駐米大使から米国務長官に訴えさせました。すると、アメリカ政府から「各国は自由に行動する権利を有する」という回答がありました。日本政府は驚嘆しました。要するに条約を守る必要はないという回答だったからです。

日本は、ワシントン条約を信じて遵守していたのですが、中華民国だけでなくアメリカまでが守ろうとしないので吃驚しました。条約を無邪気に信じていた日本が初心だったようです。

以後、日本はワシントン条約を信頼しなくなり、独自路線を模索する政治的動きが旺盛になりました。それも無理はありません。なにしろワシントン会議を主導したアメリカに条約遵守の熱意がないからです。

これに加え、支那大陸における排日運動が活発化し、在支邦人が多大な被害を受けるようになり、排日事件が多発しました。それでも日本政府は隠忍自重します。

しかし、日本の忍耐が終わります。それが満洲事変です。昭和6年でした。すると、アメリカ政府は態度を変え、ワシントン条約を守らなかった日本を非難しました。内田康哉は激怒します。アメリカは、昭和3年には「各国は自由に行動する権利を有する」と言っておきながら、今になって「日本は条約を守れ」と態度を豹変させたからです。

日本軍は、張学良の軍閥を追い散らし、満洲を平定していきます。翌年になると、これに対抗する蒋介石が上海で大軍を動員して租界を包囲します。第1次上海事変です。世界の注目を集めておいて、国際連盟に大使を派遣して「日本に侵略された」と被害を訴えたのです。見事な情報戦略です。

蒋介石のプロパガンダは国際世論に容れられ、国際連盟はリットン調査団を満洲に派遣しました。

そして、満洲問題が国際連盟の議題となります。ここで活躍したのが松岡洋右です。松岡の弁舌は冴え、「十字架上の日本」演説をした時には、万雷の拍手を得、蒋介石のプロパガンダを粉砕します。さらに、第1次上海事変も収まり、対日批判は雲散霧消します。

しかしながら、満洲事変の戦火が収まらなかったため、国際連盟の対日批判がふたたび強まりました。また、日本では、斎藤実内閣が成立し、内田康哉がふたたび外務大臣となり、国際連盟脱退を閣議決定します。内田康哉は、国際社会に対する不信を表明したのです。

このため昭和8年に日本は国際連盟を脱退することになります。松岡洋右は国際連盟にとどまるべきだと考えていましたが、閣議決定には逆らえませんでした。

この経緯の詳細はジョン・マクマリー著「平和はいかに失われたか」に詳しく書かれています。

 

 

こうした歴史の流れは、極東裁判史観では決して語られません。虚妄の極東裁判史観は、悪辣な日本が世界制覇のために満洲事変をやったということになっているのです。

アメリカは、ワシントン条約を成立させておきながら、それを守らず、またそれを中国に守らせなかったのです。そして、日本が満洲事変を起こしたとたんに態度を豹変させて「条約を守れ」と日本批判をはじめました。アメリカの日本に対する背信こそが、その後のアジアの歴史を変えたのです。

こんにち、松岡洋右に対する評価が不当に低いのは、極東裁判史観のプロパガンダが効果を発揮しているからです。真実の歴史はむしろ逆です。アメリカこそが、条約をエサにして日本を愚弄したのです。

 

それにしても、これだけ堂々と日本の立場と覚悟を世界に表明した外交官は松岡以外にはいません。さがせば、幕末の高杉晋作でしょうか?今はもうダメですね。