原書房「敗戦の記録」を読みました。

この本は、大東亜戦争の終末期における政府・大本営の記録集です。この中に堀場一雄の回想文が収録されています。「戦争指導の反省」です。堀場一雄は陸軍省、参謀本部、支那派遣軍などの勤務経験がありました。以下に印象的なところを抜き出してみます。

「支那事変は、戦争指導一篇の哀史なり」

これは印象的な一文です。支那事変の戦争指導がうまくいかなかったと言うわけです。何がダメだったのでしょう。それらしい文言をひろうと、「政戦略を統一せる戦争指導力の確立あらざりし」、「最高責任者の無脳無気力」、「決定に至るも単なる決定にとどまり、その実行に徹底せざる場合おおし」等々、かなり辛辣です。

堀場は具体的事例をあげています。

①昭和十二年七月の出兵決定時
 戦争指導当局は、不出兵か、さもなくば半軍動員(戦費55億円)による短期決戦の二者択一を政府に迫りました。しかし、政府は無脳でした。どちらも採用せず、三個師団出兵(戦費3億円)という中途半端な決定をした。

②昭和十二年十二月からのトラウトマン交渉
 戦争指導当局は交渉妥結を求めたが、政府はこれを拒否し、「国民政府を相手とせず」との声明を発表してしまった。

③昭和十三年四月の日支関係調整企画
 戦争指導当局は戦線拡大を停めて日支関係の調整を図ったが、政府は遅疑逡巡して半年を浪費し、ついに決断しなかった。

④昭和十四年五月の新国民政府樹立
 戦争指導当局は汪精衛の新国民政府樹立に疑問を呈したが、政府はこれを無視し、汪精衛政権の樹立を推進した。

⑤昭和十五年十一月の大持久戦構想
 支那派遣軍は支那事変に対処するため大持久戦構想を打ち出したが、政府は欧州方面のドイツ軍に幻惑されて真剣に検討しなかった。

 堀場一雄の不満は主に政府に対するものです。政府は決断が遅く、決定しても非合理的であったり、不徹底であったりした。このために支那事変は泥沼化したという主張です。戦争指導当局が合理的提案をしても政治がこれを決断できない。これが日本の失敗を招いたということのようです。

この点、石原莞爾の「日本には中心がなかった」という主張と相通じます。どうして日本には権力の中心がなかったのか。堀場は書いています。

「国家は政戦両略の責任を二分し、陸海軍を両断し、これを統一する指導力において根本的欠陥あり」、「最高責任者において叡智、大識、決断および責任感等必須の素質に欠くるところあり」、「人事安定ならず」、「国内政治力は極めて貧困」、「各般の分掌は対立の余弊におちいり、統一総合の機能に欠けたり」、「国民感情および世論の趨向は国家施策に反英し、純粋なる戦争指導を拘束せしことしばしばなり」。

このあたりの主張も石原莞爾のそれと似ています。

「卓見なりといえども、少数派の意見は残置せらるを通例とす」

どんなによい意見を出しても衆愚政治の中では名論卓説が通らない。なんだか今の日本と似ているような気がします。

「陸海軍の対立を尤となし、軍部および政府の対立、政府内部各省の対立、軍内にありては軍政部および統帥部の対立、総帥部内にありては作戦当局と戦争指導当局の対立、これなり」

日本国内は対立ばかりだったようです。そのため戦争指導当局は「主力をもって国内戦、一部をもって対外戦」という事態におちいっていたようです。

「国家に全局を総合整理するの識能および機構を欠き、統合せる最高責任の帰趨なし。戦争指導、なにによってか起たん」

これはもはや嘆きです。そして、人事についても弊害が多かったようです。人事異動が頻繁でした。

「後人の多くは前人に習わず、かりに前言を模倣するといえども真意の継承は難く、中枢人事の交代とともに思想の一貫脈絡はおのずから破らるるを常とせり」

「頻繁なる人事異動は看過すべからざる事に属す。経験を積み事態に通暁練達ならんとする者は、相次いで頻繁に地位を移動し、新たにこれに交われる者は幼稚なる第一歩より経験を反復するを常とせり。しかも後人の多くは、自我企図心のみ盛んにして前人の勧戒を聴かず」

結局のところ、「総合識能の欠如せる、総合国力の認識なき、戦争規模の把握なきところ、国策は国力の限界を無視して奔放す」という状態になってしまった。

結果論ながら、大東亜戦争の敗戦は「軍部が悪い」の一言では説明しきれません。本当の反省はなかなかにむつかしいようです。
 

 

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