豊臣家の天下を守ろうとした石田三成は、関ヶ原の合戦に敗れ、殺されました。

第二代将軍秀忠の時代から、石田三成に関する言説への幕府の検閲が強化されたようです。

かつて三成が統治した湖北地方では、村の庄屋は年に一度、代官に次のような申告をしたそうです。

「当村にはキリシタンと石田の一族はひとりも居りません」

徳川三百年の間、石田三成は悪人とされ、奸佞邪知の痴れ者とされ続けました。史学者たちも幕府の威光をおそれ、三成のことを悪く書き続けました。新井白石も頼山陽も例外ではありませんでした。御用学者でした。「石田軍紀」という石田三成を主人公にした物語さえ、三成を悪人として喧伝するための著作物でした。

徳川時代、石田三成を弁護した唯一の著名人は水戸光圀公でした。

「石田治部少輔三成は、にくからざるものなり」

また、掘田菱水「慶長中外伝」には次の記述があるそうです。

「人、その三傑を問へば、則ち木下秀吉、徳川家康、石田三成なりと」

しかし、これは本当に数少ない例外でした。

変化が生じたのは維新後です。

明治三十五年水主増吉著「千古之冤魂」が出版され、石田三成の再評価が試みられています。

世の三成評に疑問を感じたのは、明治の実業家である朝吹英二でした。朝吹は私費を投じて歴史学者に石田三成の再評価を依頼しました。渡辺世祐という歴史学者が三成の事績を洗い直し、明治四十年に「稿本石田三成」を出版しました。以後、徐々に三成の評価は変わます。

福本日南、池崎忠孝、池田晃淵などが三成擁護論を発表するようになりました。

池田晃淵は次のように書いています。

「総ての書が石田三成を指して大悪人のごとく書きなせるは、これ徳川幕府権略の一にして、盛んに三成を悪人視し、これを唱道してその烟の中に自家が豊臣氏の寄託に背きたる醜を巻き込まんがためなるのみ」

また朝吹英二も書いています。

「なんとなれば徳川幕府は、はじめより、その存続に不利なる事実伝説の湮滅を勉め、民間の学者もまた幕府に阿りてかかる記事論評を避けたればなり」

さらに福本日南は書いています。

「成敗のあとより之を見れば、いかにも三成は家康の挑発に乗ぜられ、豊臣氏の天下を挙げて、之を家康に捧げたるにも当たらんか。これ即ち成敗の見なり」

なんだか戦後日本の事情とそっくりです。

石田三成を東條英機に、徳川幕府を占領軍に置き換えると、まったく同じ事が起こっているとわかります。極東裁判史観を信奉する反日左翼の御用学者の言説は、幕府に追従して三成を悪人にし続けた史学者と同じです。

徳川家康の謀臣たる本多正信は、家康に言上したそうです。

「三成は徳川の家に大功をなしたるものなり。三成よしなき軍を起し、西国中国の大名を語らい候らいしに、一戦うち負けたる故にこそ日本六十余州みな徳川家に帰服いたし候へ。三成が存じ立ちしより、かく日本は従いぬれば、徳川家に大功をなしたるには候わずや」

毛沢東は「中華人民共和国が成立したのは日本のおかげだ」と言ったそうですが、本当によく似ています。

ついでながら、池崎忠孝著「概説石田三成」を読んでいたら、司馬遼太郎著「関ヶ原」とそっくりな記述が出てきたので少し驚きました。おそらく司馬氏は、この本を読んで小説の構想を練ったのでしょう。