(4) 国語教育が問題 

 

 最近、日本の国語教育の劣化が甚だしい。文科省は教科書では小説など読ませるより、手っ取り早く実務で役立つ文章の読解力向上を推奨している。市場原理、金銭至上主義、利益至上主義を掲げるグローバリズムの影響を受けたのだろうか。実生活で即、使えるようにと、今、マニュアルや商談文書などが国語教科書で大手を振い出したのである。現実にそれらが高校入試問題に出題されるようになった。

 この動きに心底、私は憤慨している。すべての教科を理解するための基礎となる日本語、つまり天下の国語を何と心得ているのか。銭稼ぎに直結するマニュアルの読解を優先せよと推奨しているのだから呆れる。金もうけにつながらない小説は意味がないというのか。

 先月号でも述べたが、読書は思春期の青少年の心の在り方に影響を与える。心を育む滋養、栄養素だと言い換えてもいい。小説に登場する人物の善意・悪意・嫉妬・悲しみ・歓喜・劣等感・優越感・エゴ等々、考え方や感情の動きを知ることで、人間として生きていく上で必要な情操が身に付くのである。解の見えない混沌とした事象を前に、考え方を整理し、推測する力が養われるのである。

 この力こそが将来、実社会に入った時に役立つ頑丈な杖(つえ)となるのだ。だからこそアメリカの国語教育は一貫して読書に力点を置いている。日本の文科省のように目先のソロバン勘定に動くバカな真似をしない。

 私が高校生の頃(1960年頃)の国語教科書には何本かの小説が掲載されていた。といっても分厚いものではなく、芥川龍之介や太宰治らの短編であるが。しかし今はその短編でさえもが消えた。文科省は文学を「趣味」と位置づけ、もっと役に立つ「実用学」を教えねばと意気込んでいるそうだ。

 唐突だが、私は中学三年の夏、赤痢にかかった。赤痢は法定伝染病とされ、強制措置入院による隔離治療を受けねばならない。そんなとき近所の医者が「入院などは不要。自宅で治してあげますよ」と囁いてくれ、これは助かると、その日から自宅で治療を開始。ところがうまくいかずにすっかりこじらせてしまい、結局、二ヵ月後に強制入院する羽目になったのである。高校入試の日は病院のベッドの中にいた。 

 この赤痢騒動は私の人生を大きく変えた。半年余りを病院で過ごし、高校へは一年遅れで入学したのだが、退院してからそれまでの間、読書にのめり込んだのである。たまたま源氏鶏太の「天上大風」を読み、興味をそそられ、次々と幅を広げていった。

 源氏鶏太シリーズの後はコナンドイル、マーク・トウェイン、それからパールバックの大地。その後は日本人作家の小説を角川文庫で乱読。漱石、鴎外、武者小路実篤、田山花袋、長塚隆、島崎藤村、伊藤左千夫、有島武郎、小林多喜二、宮本百合子…。ちなみに当時の文庫本は岩波や新潮より角川が一番安かった。 

 中でも田山花袋の「田舎教師」は忘れられない作品だ。私の若い脳髄は感銘の波で圧倒された。主人公の林清三は文学を志しながら貧困のために進学することができず、村の小学校の代用教員として赴任する。恋や人生に悩み、貧しい生活に葛藤するうち結核にかかるのだが、名もない田舎の小学校代用教員として、二十一歳でこの世を去るのである。貧しさの中で理想を求め、人生に悩み、ひたむきに生きる清三の姿は私の魂を震わせた。   

 と、こう言えば、たぶん私は世間から肯定の共感を得るだろう。まあ、しかしだ。そのとき抱いた感想は事実なのだが、実は私の心を打ったのはこのことではない。清廉で純朴だった清三が或る時、古河近傍にある中田の遊郭へ足を踏み入れた。それがあまりにも衝撃的だったのである。  

 この年頃の青少年は多感で、性の目覚めに未知への恐れと期待を抱く。体の奥に潜む性の暴走を必死に止め、同時に容認したいアンビバレンスな衝動と戦いつつ育っていく。それが清三の姿と生き写しになったとき、私の脳内は乱れ、雷に打たれたように真っ白になった。どれが正しいのかそうでないのか分からなかったが、ただ、人間というもの、そして人間を取り巻く動かしがたい社会の鎖というものを、何となく理解したような気がしたものだ。

 このように小説というのは人間の生き方を教えてくれる生の教材なのである。だからと言って、必ずしも主人公を肯定するというのではない。例えば太宰治の代表作である「人間失格」。ここでは人生を否定する自己破滅型のストーリー展開が続き、現に太宰はこの小説を脱稿して十三日後に、愛人の山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺するのである。 

 しかし私はこの小説が好きだ。主人公は人間の弱さ(実際には作者自身の弱さ)をつぶさに語っているからである。大文豪太宰治に対して不遜な言い方かもしれないが、読後、私に何だかこんな自分でもOKなのかなみたいな安心感を抱かせてくれる。

 話は長くなった。言いたいことはこうだ。文科省には生徒にマニュアルや実用文の理解などに時間を使わせるのではなく、多くの小説を読ませることで人間教育をしてほしい。

 主人公など登場人物の気持ちや行動をどう考えるか、自分だったらどうするかなど、授業で議論させ、グループでまとめた意見を発表する。こうすることで、他者の意見を聞き、理解し、一方、自分の考えをしっかりと主張する、そんな訓練ができるのだ。これは大人になるために必須の訓練なのである。

 閑話休題。先の高校入試問題に戻るが、小説を取り上げている真面目な県もある。引用した数ページの文章を読ませ、いろんな角度から細かな設問をしている。しかしこれが問題なのに気づいていない。

 たった数ページの抜粋文を読ませ、作者は何を主張したいのかとか、君の意見を述べよとか、「あれ」とは何を指すのかなど、「唯一絶対」の正解を求めるのだ。丸ごと一冊を読ませて質問するのなら分かるが、数ページで一冊分を理解せよと言うのは酷である。原作者でさえ正答は無理なのではないか。「こんな立派な問題を作ったのだぞ」と、そんな問題作成者の自己陶酔すら感じさせる浅薄さしか覚えない。

 こんな愚問よりも、むしろ何かのテーマを与えて作文を書かせるのが最適ではなかろうか。そこでは正解を求めるのではなく、地頭の働きぶりを採点すればよい。だが、記憶力テストの良さで偏差値大学を出た文科省官僚には馬耳東風かもしれぬ。

ただ一つ朗報がある。高校現場の国語教師のあいだでは、教科書にもっと小説を載せたいと希望している人が圧倒的に多いそうである。文部科学大臣には現場の声を聞いてもらいたい。