建部山(丹後富士).....2005.10.08
今回は以前から、一度は登ってみたいと思っていた『建部山』に挑戦である。
この山は、1300年代中葉より、丹後国の守護、名族一色氏の
居城として山城が築かれた場所である。
一色氏は同時に、足利幕府の四職家の一つとして権勢を奮い、
次第に最盛期を迎える。
足利幕府衰退後は、織田信長の越前朝倉攻めに兵を送ったりしたが、
足利15代将軍『義昭』を匿い、信長の逆鱗に触れる。
1579年(天正7)に信長の命を受けた細川藤孝が丹後を攻撃、
各地で敗れた一色軍は建部山城に篭城するが細川軍の猛攻の前に崩壊、
『一色軍記』によれば同じ舞鶴市にあった中山城に逃亡したが、
中山城主・中山幸兵衛の裏切りにより一色義通は自害した。
その後を義道の子の一色義定 や、弟の一色義清 が継いで
織田軍と懸命に戦ったが、最終的には1582年 に両者も殺されて、
足利泰氏の直系、名族一色氏はここに滅亡する。
実際に山に登ってみると、土塁らしき遺構が一部残っている。
建部山自体が標高315メートルと周囲の山よりもやや高く、
同時に「田辺富士」「丹後富士」と呼ばれる優美な形をした山であり、
加えて山頂から眺める舞鶴湾、振り返れば
由良川・由良が岳を経て遠く天の橋立も望めるなど景色が絶景である。
また、山頂には旧陸軍の砲台跡なども残っており、
まさに・・・・・兵どもの夢の後・・・・・そのものである。
久しぶりの愛宕山・・・・・・2005.10.01
先日の定休日、子供のころよく登った『愛宕さん』に
登ってみた。
秋晴れ快晴の絶好の日和である。かれこれ30数年
ぶりだろうか、上り口の円隆寺の参道を過ぎ、両脇
に墓地をみながら最初の難所、石段を登る。
ハア~ハア~ヒイ~ヒイ~、年齢を痛感する瞬間で
ある。
当時の様子とはかなり変わっていた。
山の中腹あたりにあった赤土山(通称ハゲヤマ)、
見晴らしがとてもよく、
当時お尻を真っ赤にしてよく遊んだ場所だったが、
跡形も無くよく植林され杉林となっていた。
さらに頂上に向かって進む。
人がようやくすれ違えるくらいの急登板の山道を
しばらく行くと頂上にある愛宕権現山門へと続く
石段が最後に立ちはだかる。
ようやく頂上にたどり着く。
これまた30数年前とは勝手が違う。
当時膝丈くらいしかなかった
植林直後の杉たちがよく育っている。
おかげで一望できるはずだった舞鶴湾は杉木立
に遮られ、眺望は期待はずれ。残念!
愛宕山登り、子供のころを思い出しながら
ちょっぴりノスタルジックなひとときであった。
・・・・・・・が
明日の足腰がとっても心配であった。
24hoursから10日余・・・・・・2005.09.09
2005.08.28.(SUN)、感動的な映像が流された。
日テレの24時間テレビ・愛は地球を救う・
▽木村拓哉が伝える…奇跡のシンガーとは?
上の写真、向かって右側の男性が”奇跡のシンガー
”東田 寿和さんである。
東田さんは1999年上咽頭悪性腫瘍を発症され
余命半年の告知をされる。
その後一度入院され、放射線治療と抗がん剤治療を受け
られました。
(この間の心の葛藤や医療現場での矛盾、患者の弱い立
場、ガンという病気に対する東田さんなりの「おとしまえ」
のつけかた等々赤裸々に綴られた
エッセイ集「西へ向かう」
も感動的な一冊です。)
治療の甲斐あってか、奇跡的に病巣は一旦姿を消します。
しかし、運悪くその後再発・・・・・・。
東田さんはここで重大な決断を下します。
一回目の入院時の医療現場に対する不信感、
また、自分なりの「おとしまえのつけ方」
つまり、ガンという病気に対峙する姿勢を
既に決意されていた東田さんは、
家族と居られる状態であれば家族と過ごしたい。
一切の治療行為を行わない。
そして、大好きなフォークソングを力いっぱい唄いたい。
・・・・と、
現在、東田さんの病状はガンの病巣は残ってはいるもの
のその進行は止まっている状況のようです。
番組の中でも紹介された、
「遺言」テープには思わず声が出るくらい胸が詰まった。
特に奥様に対する「申し訳ない。」と
子供さんに対する「なんで生きているんだろう?
と解らないような人生だけは生きないで欲しい。」
この二つには参った。
嫁はんと二人の子供を前に思わず落涙寸前であった
同時に、俺には言えんやろなあと思った。
何故言えないのか、その違いは、
木村拓哉氏が番組の中で言っていた
「表情に甘えがない」東田さんと
そうでない私との差のように思う。
私は、「戦うおやじの応援団」
というネット上の
フォーラムで東田さんのことを知り、
東田さんのHP
を隅々まで読むうちに
東田さんの不思議な魅力にとりつかれた一人です。
何事に対しても、真摯に取り組まれ。
自分に厳しく、他人に対してもちょっぴり厳しい。
そんな東田さんの生き方を見ていると、
この人は少なくともあと30年くらいは
「人生はおもしろいよと」呟きながら
がん細胞と一緒に悠々と生きるんやないかなあと
確信めいたものを感じずにはいられません。
大庄屋・上野家・・・・・・2005.08.20
先日の木曜定休日、奥さまと子連れで加佐地区
(昨年の大風23号でバスが水没した地域)の
『大庄屋上野家』へ行ってみた。
上野家は、江戸時代後期から田辺藩(現:舞鶴市)
の八大庄屋の一つとして、代々庄屋を務めた旧家
である。
母屋を中心に長屋、馬屋、
数棟の土蔵群からなっている。
屋敷の正面から東側面にかけて
長大な塀がめぐらされ、
その中に客人をもてなす格式高い書院庭園がある。
この庭園は書院造りの客の間(下写真)より
一望できる。
また、東北後方には屋敷神(荒神さん)
が祀られている。
母屋(下写真)は茅葺で桟瓦葺下屋庇が四週する。
母屋に入ってみると、ひんやりと気持ちいい。
外は真夏の気温35度。
茅葺屋根の威力だろう。
空調設備などなんにもない、
否、クーラーなんかの冷気より数段気持ちいい。
団塊の世代がリタイヤ後は
田舎暮らしに憧れているという。
そんな気持ちがよくわかる。
こんな所にくると私も、
明徳義塾高校問題について・・・・・、2005.08.07
明徳義塾高校が、第87回全国高校野球選手権大会・
高知代表としての出場を辞退した。
一番の被害者は勿論選手達である。
そして一番の問題は、
事実をあるがままに公表せず、
隠避に走った事にあると思う。
7/09 2年生3人、1年生8人が寮内のボイラー室
で喫煙してたことが発覚
7/15 3年生4人、2年生2人が1年生に
継続的に暴行してたことが発覚
もし、7/15の時点で事実を高野連に報告
(加盟校は、審議を必要とする事案
が発生した際は、速やかに県高野連に
報告をする義務を有する)をし、
後は高野連のお沙汰を待つということにしていたら、
当時者の出場停止だけで済んだかもしれない。
少し前の”雪印”、最近では”三菱自動車”等など
企業や団体の隠蔽体質が
白日の下にさらされどのような結果を招いたか、
皆さんご存知の通りである。
隠蔽工作などやった所で
隠しとおせるものではないのである。
隠しとおせるならやってもいい事でも勿論ない。
ましてや、
教育の現場では絶対にやってはいけないことやと思う。
今回の事件を踏まえて、
何処が悪かったのかを検証しない限り
また不幸な高校球児が出てくるように思う。
何処が悪かったか・・・、
「事実を隠そうとした事」
「何故事実を隠そうとした・・・背景」
ここの所を検証し、改善する必要があるように思う。
07.22のつづきではありませんが・・・2005.07.26
2005年4月16日、
北海道釧路市内の病院で、
一人のシンガーソングライターが逝った。
高田 渡さんである。
心よりご冥福をお祈りいたします。
彼は1960年代後半から、
フォークグループ”五つの赤い風船”等と一緒に
プロのフォークシンガーとして活動を開始する。
”自衛隊に入ろう” ”三億円事件の唄” ”あきらめ節”
等々ウエットでちょっぴりさびの効いた
社会風刺の唄を歌っていた。
当時、私は彼の楽曲には見向きもしなかった。
それよりも、拓郎にどっぷりであった。
拓郎以外の楽曲は耳に入らなかった。
最近、友人の影響で彼の唄を耳にする機会が増えた。
何十年かぶりに彼の唄を聞いてみた。
不思議だ、古い感じがぜんぜんしない。
さらに、無性に心に染みるのである。
今、このご時世、彼の唄が妙にピッタリハマルのである。
今夜は、彼のDVDを見よう。
乗るんだよ電車によ 乗るんだよ電車によ
雨の日も風の日も仕事にありつきたいから・・・、
飲むんだよ苦いコーヒーをよ
飲むんだよ苦いコーヒーを
履歴書を書くために仕事にありつきたいから・・・、
新聞を見~たよ、 新聞だって見たあよ
電話だってかけたよ仕事にありつきたいから・・・、
07.22のつづきではありませんが・・・2005.07.25
昨夜、NHKでオン・エアーされた
サンデースポーツのインサイドは良かった。
18日のWBC世界Sフライ級タイトルマッチで
対戦した徳山 昌守と川島 勝重
の試合当日までのトレーニング、心の葛藤、
試合後のインタビューなどが
ドキュメンタリータッチで描かれていた。
男の意地とプライドをかけた戦いだった
のではあるだろうけれど、
究極、それは相手との戦いではなく
実は壮絶な”自分との戦い”であった。
前日の計量の際、リミット一杯で通過した
徳山が言った
「よっしゃあ!自分との戦いは完勝や。」
また、試合前鶴ヶ丘八幡宮に参拝した川島は
「勝たして下さいとはお願いしませんでした。
応援して下さいとだけお願いしました。
たして下さいはずるいじゃないですか。」・・・と。
結果は、12Rフルラウンドの戦いとなり、
判定で徳山の勝利となった。
しかし、
試合後の二人のコメントが実に気持ちよかった。
川島「徳山という選手と戦っててとても楽しかった。
徳山と12R戦えた事が嬉しい。」
徳山「前回の試合以降”川島”という大きな壁が・・・、
この壁をよじ登るんや
という思いだけでやってきた。
けど、今は、川島選手とは”一緒に酒が飲みたい
そうして、いろんなことをいっぱい、いっぱい、
彼と話したい。」
自分との戦いに納得し、
相互に認め合った二人だからこそ発せられる言葉。
ええなあと思う。
自分に妥協ばっかししとる私には到底及ばない域である。
ある日ボクは・・・2005.0722
ある日僕は、
朝粥を、薄味の鰹風味ふりかけを
少しだけかけて食した。
その日のお昼は、
鮭風味のおかゆだった。
仕事を終え帰宅し、食した夕食は、
ポタージュスープ一杯と少しの黒ビールだけだった。
翌日、窓際のカウンターに座らされた僕は、
朝の8時40分から10分毎に
コップ一杯のポカリスウェトみたいな味のする
”下剤”を粛々と3時間30分
飲み続けた。
その間、排泄回数15回。
最後は、最早大便ではなかった。
ほとんど水である。その日の午後2時過ぎ、
それは始まった。
・・・・・・・・・・・・つづく
友人の日記・・・2005.07.04
私の友人がHPで公開している
日記に書かれてあった・・・。
「写真をサイトにアップするというのは、
本当に便利である。
パソコンがネットにさえ繋がっていれば、参
加者全員、見ることが出来るし、
必要な人は自由に取り込むことも出来る。
昔なら、写真の必要な方を募り、
要望のあった写真を焼き増しして送っていたが、
その手間がまったく要らない。
こんな時、少し悔しいが、
「インターネットは便利だ」と認めざるを得ない。」
確かにそのとおりです。
今起こったことでもデジカメでパシャ!サイトにアップ
地球の裏側でも、どこでも
パソコンがネットに繋がっていれば誰でも見ること
が出来る。
しかしであります。
見るだけでいいものならそれでいいとは思うのですが、
自分の大切な思い出や記念の画像、
二度と訪れない歴史の一瞬一瞬を記録した画像、
中でも子供の成長記録など特にです!
必ず写真にして残して下さい。ネ!!!
何故って、こちら↓を見てちょう~だい。
http://www.1484n.com/netprint/2dp.htm
デジグラフィーほど危ういものはありません。
皆さん!
デジカメで撮った画像はちゃ~んと寫眞にしましょ!!!
間延びしましたが5.12のつづき・・・2005.06.28
5.12の日記の続きになるが、
さすが、ジャーナリストは凄いと思った。
JR福知山線の列車事故に関して
地元新聞のコラムに、
江川 紹子さんの寄稿『余裕の無い社会の縮図』
があった。
そこにはまさに私が言いたかったことが
100%網羅されていた。
以下、その記事を抜粋させて頂く。
「いっぱいいっぱいなんです。」
自身の能力や許容量の限界に達して、
全くゆとりの無い精神状況や生活状態のことだ。
「いっぱいいっぱい」の人は、周囲を見回したり、
少し先のことを考える余裕もなくなる。
今の自分のことだけで頭が一杯になりがちだ。
それを象徴するのが、ダイヤの組み方。
脱線した電車は、
「余裕時分=ゼロ」に設定されていた。
(必要不可欠な「あそび」が無かったのである。)
という。
遅れを吸収する時間が一切無い。
予想外の出来事が起こるのが、
機械(=敢えてIT=Cp)ならぬ人々の暮らしや
社会の常であるというのに。・・・中略・・・
運転士達もいっぱいいっぱい。
日勤教育を受けることを考えただけで
いっぱいいっぱい。
事故現場を救助活動せずに立ち去った
JRの社員たちも自分の立場を守るだけで
いっぱいいっぱい。・・・中略・・・
私自身、電車が少しでも遅れると
間に合わないようなギリギリの予定を
組んでしまうことがある。
そんな時は数分の遅れでもイライラする。
鉄道に限らずあらゆるものが便利になり、
スピードアップされるほど
生活や気持ちはせわしくなり、
「ゆとり」はむしろ減っていく。
今回の事故は、
そんな私たちの「いっぱいいっぱい」な生活に
それでいいの?と問い掛けているように思う。
何の為の便利さか、
人や企業にとって一番大事なものは何か、
あらためて考えたい。



