将軍御殿医の娘であったみねは、築地に住んでいて、

隅田川を激賞していました。

水の綺麗さや風景、そして、猪牙を操る船頭の棹の捌き、

もう一度見てみたいという願望をずっと持っていたようです。
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この頃になると、富士講や大山講が山立ちする。

『東講商人鑑』

店の中には、紙がぶら下がっており、色々な講中の紙が見える。

大山・富士・伊勢・江の島・伊勢・金毘羅・成田などである。

講は江戸時代に熱心に行われていて、種類も多い。

信者が金を積み立てて、ゆかりのある所へ参詣するもので、

信仰心の厚い信者たちが団体を結成して信仰に励むと同時に

所縁のある場所に参詣した。

行程の遠近は問わなかった。

 

特に富士に対するものは強く、毎日富士山が見えるから

というものもあり、江戸人にとっては、強いつながりが有り

特別なものではあった。

 

富士山の祭神は、木花咲邪姫である。

人間の美女に対して嫉妬深いので、美人が来ると

雨を降らすという為に、用心の為に、

女性は傘を持って参詣しています。

水中にいる人達は、大山詣での為の水垢離をしている人です。

川には水垢離場がありました
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相州大山の石尊大権現参詣は江戸からばかりではなく

地方も多く、上州、信州、奥州、上総、下総、上州、武州

から参詣するものが特に多かったという。

 

江戸から大山詣りに行くことを、「山立ち」という。

半纏や白い行衣に鉢巻きを締め梵天と1尺余の大太刀を構え、

先達が吹く法螺貝に併せて

お山は晴天、六根清浄」「懺悔懺悔、六根清浄」

と掛け念仏を唱えて歩く。

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中には、盆の掛取りの借金取りに追われて逃げ出す人もいる。

しょせんたりないと 大山さして行き

 

通常であれば、日本橋を夜明け前に出て、品川へと急ぐと、

神奈川から日本橋の魚市場へと魚を担いで掛け声を

掛けて急ぎ行く陸送の人足と出会う。

高輪へ出れば、当時はまだ足もとまで波が

打ち寄せる1,8キロの海岸、

朝日を拝みながら品川の宿である。

丁度、道の両側にある妓楼から名残を残して別れを惜しんで

出て来た男達が出てくる。

 

品川から川崎・神奈川・保土ヶ谷を過ぎて、戸塚が泊りである。

この間、10里18丁。

 
翌日は藤沢の遊行寺へ参詣。四谷の立場から大山道に入り、

伊勢原を過ぎ、山道にかかる。

山下の前不動に到着。ここに泊って、翌日、46丁の険しい山道を

登るのである。

 

大山ろうべんの滝

最初にこの山に入った奈良・東大寺の僧・良弁(ろうべん)が

修行したようです。

ここでも垢離をします。

江戸での垢離は世間の汚れを垢離するのであり、

ここのは山に入るための禊である。
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大山に雲が掛かれば雨が降る。

雲が去れば晴れになる」といわれ、

通称・雨降山と呼ばれた位ですから、

人々は雨ごいや雨止めを祈って手を合わせてきました。

農民は五穀豊穣、漁民は大漁と航海の安全、

江戸時代には火消や酒屋が水に関連する神として

崇め大変馴染みの有るものでした.。

 

後に札差が豪奢な生活をしてると咎められたが,

札差の18大通の一人で下野屋十右衛門がいた。

名を祇蘭と称し大山参りをした

大山参りの大太刀を3間半ほどに拵えて、若いの者

4,50人にそろいの浴衣を着せて、掛念仏を言わせ大通りの

芝口から高輪に差し掛かった

自分は好みの浴衣に鮫鞘の一腰を差て布団を重ねて

駕籠に乗り,戸を左右に開かせて先導をした。

 

ほどなく品川の宿の入り口に差し掛かったところ、

後から来たお役人に祇蘭は駕籠から引きずり降ろされ

高手小手に縄で縛りあげられました

若い者たちも同様にひっくり返されて、すぐさま入牢させられた

 

余りに贅沢なことをしたので身分不相応というお咎めを

蒙り,暫くの間牢内にいるようになったのは

珍しい事件だという。

   富士講と大山講  高輪
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