弥生。

草木が生い茂るという意味。

リフレッシュした~い!そんな時は江戸時代のレジャー「春の ...

柳沢の殿様も摘草に行ってる

安永9年3月10日庭でタンポポを取ったが、

午後2時から側室のお隆と一緒に摘草に出た

山王山を下り嫁菜を取。

中里村に入り牡丹屋前無量寺でも草を摘む

3丁ばかり畔で芹を取る

2時間経過し弁当を食べる

この頃、桜花、桃季、辛夷満開であった

そこから草を摘みながら帰路につく

 

愛妾のお隆は何処に行くにでも一緒です。

正室の事は何処にも出てきません。

隠居したら別に住んでるようなので気にもならないでしょう。

その代わりと言ったら何ですが、愛妾が先に亡くなるが

どっと落ち込んだようで何をする気にもならなくなったようです。

 

一行の数は大体20人ほどで側室が居るのでお供の女中も

いるでしょう。

トイレをどうしたのかと心配してしまう

余計なお世話ですね。

3月14日もやはり側室同道で摘草に行った

「坂下にて嫁菜摘む、牡丹屋東の民家此ほと行し家へ行く、

三つ葉芹、タンポポ取る」

笠志方へ小觧に行く」とある。

小は小便の事である

殿様ですから外でするというわけにはいかないのでしょう。

 

前に大觧という言葉が出てきて番所で用を足したとあったが

大便の事である

 

町の中なら有料便所もあるし、民家だったらトイレを借りることも

出来たが山の中では女性は大変であったでしょう

但し、糞尿は肥料として価値があったから、

寺社や仏閣の参道などで肥桶を囲った私設の

「公共トイレ」があったそうである。

江戸時代のトイレは紙があった?現代とは違う驚きのトイレ事情をまとめ ...

上野の不忍池の弁財天の開帳の時は多くの人が集まります

そこで困るのがトイレ。

連日の大入り、しかし、トイレが有りません。

有料トイレもあったが貸雪隠と言い、料金1回5文。

 

そこで裏側に有料トイレを作った所、これが満員盛況

これを見た或る人、同じく作ろうとしたが、女房が

もうダメだからと言って止めたが作る。

これが満員で前に作ったトイレはガラガラ。

不思議に思った女房が亭主に聴くと、

向うのトイレは、俺が1日入っていて使用不可に

したからだという。

落語の「鹿乃子餅」でした。

 

武士の場合はどうであったかというと

紀州徳川家では、規則書「江戸御屋敷中御定書」で

次のように注意を促してる。

「1.侍衆居られ候あたりにては、大はだぬぎ、

   立しょうべんの類、仕まじき事

1.お供先にて、腰掛、門に唾はき、落書きいたし

  人の屋敷に込み入り致し申しまじき候、

  大小用を叶え候ども、物陰門番に聴き、

  雪隠に参るべく申す段」

 

当たり前に思えるこの禁令が、毎年執拗に出されていた事は、

武士は町中で町人と同じような立小便の類をしてたからであり

規則が守られてなかったという事であった。

 

更に続きます。

大好きな話題なので止まりません

楽しい行楽などに出かけた時のトイレの話です。

 

当り前ですが江戸時代は、大体屋外にトイレなど有りません。

京や金沢などでも女性は立小便をしてた

京で、とりわけ滝沢馬琴の目を引いたのは、女性の立小便である。

「京の家々厠の前に担桶ありて、女もそれへ小便するに、

富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。

但し、良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところかみをもちて

便所へ行くなり。

月々6斎ほどづつこの小便桶を汲みに来るなり。

或は伴2,3人連れたる女、道端の小便たごへ立ちながら

尻の方へむけて小便するに、恥じることなく笑ひ人も無く」

ただ、これは上方風俗で明治まで朝顔(花ではありません)に

後ろを向いて用を足していたという証言も有る。

又、文政8年(1825)大坂・難波新地で行われた見世物の

チラシではあるが、その中にこう記してある。

「町のかず 728町、家の数 9万3113軒、凡そ人の数 

49万、寺の数436軒、犬の数2103匹、猫の数2万106匹、

(どうやって調べたのでしょう)

そして、その中に、四つ辻小便担桶3503、とある。

当時は町の角々に小便用の桶が置かれ、男女とも立小便をし、

貯まった桶は肥料として農家に売られたという。

ですから、京阪では普通であったのでしょう。

 

女の立小便は往古の髪型風俗で明治まで朝顔に後ろを

向いて用を足してた(お家はん)がいやはりましたと

難波人の証言がある