扇子がお年玉? 江戸時代の年始の挨拶はどんな風にしてた ...

途中にある挨拶言上、これは当時は極めて重要な事でした。

昇進した場合などは当たり前ですが、何らかのご褒美を戴いた時、

或いは、人事異動を巡って要所に居る人に前以て渡すものを渡して

便宜を図ってもらったが、しかし、残念ながら意にに反しての結果となった。

こういう場合でも必ず挨拶に行きます。

 

しないと御咎めがあります。

「上をないがしろにしている」という、理由です。

 

これ等御礼言上をする時は、お供として草履取りが同行します。

歴っとした武士は一人で出歩きません。

相手の家に上がるのに、歩いてきた汚れた足で上がる訳にも

いかないので、その為に、草履取りに予備の足袋を持たせてます。

玄関の前で履き替えて上がります。


 

 

大広間

ちなみに、最初の江戸城の大広間にはどうもトイレは無かったようで

寛永17年(1634)の造営で初めて作られ、

中庭と将軍が使用する大小の用場(トイレ)が出来た。

当時の人は、大小便をしなかったわけではありません。

 

御番所の大用場へは燈なく

        下駄にて滑る用心せへよ

下駄があり、石畳みの為に滑りやすく、しかも真っ暗だったのでしょう。

熊本藩細川家の藩主が暗かったためか、家紋の見間違いで旗本に

殺されるといった殺人事件もあったし、

あとは時代が後になればなるほど用を足すときに

脇差を落とすことが多かったようで

大用場立とき帯かゆるまりて  

          脇差落す事も切切(折々か)

これは、刀の扱い方が段々慣れてないのでそうなったのではと思われる。

普通の刀であればまぁ、勘弁も出来るがそれが拝領のとか、

神君(家康)由来の刀であったら大変です。

ただ、当時のトイレは汲み取りですから、翌日係に密かに頼んで

必要なものは十分渡して口止め料を兼ねてですから、そうすると

手元に戻るケースがよく有ったという

 

問題は将軍の紅葉山参拝の場合で、しかも、行く時の乗物は、

轅(ながえ)という、今でいうと担架を手で持つ

スタイルであり、載っていくのですから、

冬は冷たい風があたり寒いし催したでしょう。

 

当然ながら紅葉山にはトイレは有りません。

神聖な場所ですからです。

トイレの事を御不浄と呼ぶくらいですから、神様を祀るところでは

在ってはならないものなのです

従って、トイレの問題に苦慮したと、

「徳川礼典禄」にも、その旨が記されている。

 

大奥用厠 着物掛けの手摺も付いてます。

トイレ5  

御台所の厠は「御用所」「御不浄」と呼ばれた。

大きさは4畳くらいで、御付女中の控の間も付いており、御付女中も

一緒に入り後始末をしたが、それを嫌った御台所もいたという。

京から来た公家の場合は、お任せであったようです。

中奥の将軍のトイレには、引き出し式の「御樋箱」がついていたが、

御台所のは穴を深く掘り、万一の事を考えて、途中に金網を張った。

但し、汲み出すことは無く、使用者一代とされ、その名を「万年」と称した。

 

トイレには、常に香が焚かれ、臭気を嫌ったという。

そして、大奥は女の城であるが、勿論、将軍専用のトイレも大・小完備

されていたという。

紅葉山