お宮参りの時は、近所の皆で行きます。

裕福な人は、鳶の親方を同行し、肩車して

連れて行きます。

 

名前ですが、これは揉めることが有りますが

普通は大家さんや檀家寺に頼んでつけて貰う。

成人してから名を変えるのが普通ですから

取り敢えず皆に愛されるような名を付けます。

 

この時代は、堕胎や間引きについては、それ程特別なようには

思っていなかったのか判らないが。

3人以上の子を産んだ女性は「畜生腹」と呼ばれ、

来世に罰を受けるという迷信があったくらいである。

名前に「留」とあるのはもうこれで子供は最後というのを

示してるのが普通です

特に貧乏人の子沢山という言葉があるが、貧乏なので

子供はもう沢山という意味あった。

 

身分によっても現れて上層の身分の武士ほど

子が多く、愛媛の宇和島藩10万石では、数百石以上

の武士の家は子を5人以上だが、50石以下の身分の

家は3人台後半であった。

「貧乏人の子沢山」は嘘なのである。

 

貧乏というと、神様の中でも最大最強にして不滅の

「貧乏神」がいます。

 

「稼ぎに追いつく貧乏無し」と云われるが、これも嘘で

身を粉にして働いたからといっても、容易に金持ちに

成る訳ではない。

むしろ「稼ぎに追いつく貧乏神」と云って、働けど働けど

楽にならず、じっとわが手を見るというのが普通である。

啄木の心境です。 

 

年末になると大体大掃除をやる家が多い。

日本では「煤払い」、中国では「送窮」。

これは、家の掃除を怠けて埃だけにしておくと、

貧乏神が住みつくところから、それを追い払うために

家を大掃除を行い、新年を迎える。

 

つまり、貧乏神を掃討する、一大作戦なのです。

貧乏神にすれば迷惑この上ない事です。

 

江戸時代にこの貧乏神に出会った武士が居る

文政8年(1821)旗本の家来のこの武士は、

或る時、今の埼玉の越谷に向かう時に出会った。

 越谷宿

 

その様子を、「白の菅笠に鼠色の衣を着た僧侶である。

顔は、色蒼黒く、目深く、顔尖りて、いと痩せて、

齢は40あまり、頭陀袋を下げていた

 

この貧乏神が言いました

「我は貧乏神である」

3代前からお前の屋敷にいるが、1両日中に近くの

旗本屋敷に引っ越す。

だから、お前の家はもう貧乏でなくなる。

そういってすっと消えたという。

滝沢馬琴の随筆に書かれている。

 

ちなみに幼児の遊戯に

「♪結んで、開いて、手を打って・・。」

という歌があるが、江戸時代の「小児必用養育草」にも

記されている。

「稚児に拍手(かしわで)振頭を教える法」として、

子供に「歩み、歩みといひて歩行することを教え」、

次に、幼児手を動かす時に至れば

乳母の類、先ず教えるに拍手ということをなさしめるなり」

理由は、小児には、まず拍手を教えることは、

礼を教えるに古き遺法なり」として、

古きは「魏志倭人伝」にも、「敬する所を見れば、

ただ手を打つ」とあるので

弥生時代からもう拍手をしていたのでしょう。