江戸時代は、子供の数は3人位が理想で、

その為には5人くらい産まないといけない、

乳幼児の段階で2人くらい減ってしまうからです。

それくらい死亡率が高かった。

 

これは今も同じですが、意味が違います、

当時は乳幼児の死亡率は異常に高かったのです。

しかも出産時での母子死亡も多い。

出産というのは一大仕事であったわけです

その為、子が生まれて宮参りの日を迎えるというのは、

今の喜びの比ではありません



 

大名の大和15万石柳沢家の記録がある。

5代綱吉の側近として権勢を振って大名になった柳沢家。

柳沢吉保から7代の殿様が計120人の子供を

作ってるが、それら子供の平均寿命が22才。

その内、20歳を超えたものが数人であった。

 

柳沢家上屋敷

柳沢家は、吉保の死後も大和国で大名として存続したが

吉保以降の7代・200年間で生まれた乳幼児の実情は

悲惨なものでした。

 

初代の吉保は、側室が8人、正室の腹から嫡男の吉里が

生まれ彼は59歳まで生きたが、あとの4人はいずれも

3歳までに死亡、ほかの側室からも10人生まれた。

計15人の子の平均死亡年齢は24,2歳だった。

 

嫡子の吉里は、正室側室から合計16人の子が生まれたが

平均死亡年齢は29,6歳。

 

次の伊信は、正・側室14人から22人の子をもうけたが

平均死亡年齢は22,5歳。

次の保光は、16人の正・側室から38人の子をもうけ

平均死亡年齢が14,9歳。

次の保泰は、20人の子、平均が19,2歳

保興は、8人の子、平均が9,6歳。

最後の保申は3人の子、平均が10,3歳だった。

 

この7代、200年の間に200人の子がいて、死胎、堕胎

死産、流産などの子8人を除く108人の結果はというと

男22歳、女15,3歳、平均の死亡年齢が20,3歳。

 

乳幼児の死亡率の高さがこの数字となるが、特に、

伊信の代から1から4歳までの死亡率が高いのが目立つ。

後半に行くほど高いのはどういう理由であったのでしょうか?

 

殆どが乳幼児の頃に死に著しく死亡率が高い。

元禄時代の江戸の人の平均寿命は男39,4歳、女が40,4歳

現代と比較すると半分にも満たない寿命であった。

乳幼児を除いて計算すると、江戸時代の平均寿命は

結構高くて60才を越えます。

それを超えると90歳を超え、未だ隠居などしてません。

100才を越えて宮仕えをしてた例もある

 

原因として疑いのあるのが奥女中の厚化粧。

御台が京から来てるので京風の白粉をたっぷりと全身に塗る。

文字通りの白壁造りともいわれたほどです。

乳幼児は乳を飲むときに、白粉が鉛からできているのですから

当然ながら口から鉛を飲むことによるのが原因ともいわれる。

 

これら鉛化粧品が慢性中毒を引き起こすことは、明治になって

証明されている。