結婚から誕生

江戸っ子の死生観は、人は満ち潮の時に生れ

引き潮の時に亡くなる」

これを固く信じていていたそうです。

「満ち潮は笑顔、引き潮泣きっ面」

婚礼、「婚」とは、女と昏の2字から成り立っている。

昔の婚礼が黄昏に行われたことに由来するからである。

ちなみに、結婚式は夜行われました。

これは男性を「陽」・女性を「陰」とする『陰陽道』の考え方に

基づいて「陰」である女性を迎えに行くため

夜が適しているとされていたそうです。

ちなみに結婚衣装は白色です。

 

女性は夕暮れに男の下へ輿入れしました。

夕暮れに輿入れする礼儀作法を「礼」と云います。

 

夜の漆黒の中、高張提灯を掲げ、白装束で飾った花嫁行列が

粛々と歩んでいく、人生の中で最も華麗な一瞬です。

メタボンのブログ
明治の頃の華族たちの婚礼の話です。

結婚後のお初便りがあります。

嫁に行って数日後のお日柄の良い日に、里へ手紙を出すのが

「初便り」と云いました。

 

この便りを書くことについて問題なのは、奉書に毛筆を使い

候文を書く事です。

内容そのものは通常の書状ですが、これが厄介なのです。

江戸時代でしたら、問題も少なかったでしょうが、明治になると

少し縁遠くなっています。

 

その手紙を書いて文箱に入れて使いの人が持参します。

すると里の母が、返事をその文箱に入れて、再び、使者に

持たせて返すという儀式でした。

 

しかし、抜け道もあるのです。

前以て書いておくのです。

「おたあ様がお手本を書いてあげますから、今日書いて

仕舞いなさい」と云われ、一生懸命書いたそうです。

 

そして、嫁入して4,5日経つと義母がお日柄が宜しいので

「初便り」を書いたら如何ですか。」

奉書にいきなり書くと難しいので、おたあ様が見て上げますと

云われ、困ってしまい。

実はもう書いてきました。と見せたら大笑いされました。

 

又、里の母に「嫁に行ったら里はこうだったとは言ってはいけません。

御家風に合わせる様に云われたので、実家では、

こういう場合はどうしたのと聞かれて、「如何でございましたかしら」と

知らぬふりしていたら、内も教えてないのね、と云われ、

義母が気の毒になって、実は聞かれたら「存じません」

と答える様に云われてます。

と云ったら、又、大笑いになりました。

こうした失敗が許されたのも、私が16才という若さで

あったからでしょう。

 

新婚旅行は関西に行きました。

こういう旅行や出産の時のように長き家を空ける時は、

床の間に「長熨斗」を三方に乗せてお祀りました。

 

この旅行にも、表の奉公人と奥の女中も一緒でした。

今の人は変に思うのかもしれませんが、私たちは

邪魔だとも思いませんでした。

 

里帰り

大名の里帰りというものは、滅多にしなかった。

今の高崎の大河内家から嫁いだ方ですが、年に1回

正月に帰られましたが、その時、義母に、あの方の御挨拶は

長いから先に頭を挙げないで、という注意を貰いました。

 

本当に長かったです。

座敷の唐紙の蔭に座って、義母が御次の間から(どうぞ、お通りを」

と申しますと、大叔母が唐紙の向うで「まぁ、お前さまどうぞ」とある。

すると、又、義母が「まぁ、どうぞ」という応酬が何度かあって

やっと、義母が上の間に入り、それからが長い挨拶で

「ご無沙汰申上げて・・・・御揃い遊ばして御機嫌よく・・」から、

お互い時候の事、長々と遣り取りしてる間、私はずっと頭を

下げ通しでした。

これが昔の大名の奥方の挨拶なのでしょうね。

 

この里帰りでも着物から帯まですべて新調したし、人力車を

何台も連ねて沢山のお土産を積んでました。

お土産を並べると奥から表にでるくらいあったそうですから

何度も帰れません。