谷中霊園にある徳川慶喜の墓 写真素材 [ 6492725 ] - フォト ...

台東区にある都立谷中霊園内に約300坪の敷地を有する

最後の将軍(15代)徳川慶喜の墓所。  

高い柵や塀に囲われ、金に輝く葵の紋があしらわれた

鍵付きの門が正面にそびえ立つ。

都指定史跡の文化財だが、墓所は一般公開されておらず、

鍵は子孫が代々、管理してきた。

 

裏門には「塀の崩落注意」という大きな看板が掲げられ、

立ち入り禁止を示すポールが塀沿いに並べられていた。

「塀を修理するだけで2000万円前後はかかる。

そんなお金はとてもとても……」と管理者は嘆いている。

 

徳川慶喜公の墓 写真素材 [ 4629162 ] - フォトライブラリー ...

「墓は個人の所有なので、継承者が管理するのが原則」

(東京都公園課霊園担当)という。

さらに慶喜家の墓所は谷中霊園内にあるが、

土地の所有者は徳川家歴代将軍の墓がある寛永寺となっている。

 

慶喜は青山霊園に行き、自ら墓地の大きさなどを計り、

自らの墓地の大きさなどを決め、

「歴代将軍家の菩提寺の寛永寺には入らぬ。

これより自分の家は、神式で行う.墓の形は御陵の形に倣い、

それを小さくしたものとする」として、谷中に墓地を決めて

土饅頭の形で墓地を作り、後に、土では草が生えて困るので

石にしたという。

 

明治維新後、天皇に忠誠を誓うために諸大名家の多くも

仏教から神道に変更し、墓も従来の五輪塔から神式の

円墳墓に変えた。

しかも旧大名家は佐賀藩鍋島家のように佐賀や東京に

10以上の寺に菩提寺がある。

そうなると子孫は墓参するのも大変で、それぞれの墓の

お布施、修繕費もバカにならない。

それで菩提寺から離檀するという名目で神道に変更した

家も多く有ったという

1つにし、乃至は少なくしたのです。

 

将軍の墓は、増上寺と寛永寺あったが、将軍は交互に

2つの寺を定めていた。

慶喜の前の将軍14代家茂は増上寺であり、その関係で

慶喜は寛永寺とされていたのでしょう

増上寺は戦後、改葬の為に学術調査が行われて

将軍らの埋葬状況や遺品が公開されてるが、

寛永寺は、未だ、調査が行われてないので

将来若し行われれば大変興味深いものがある。

左が慶喜の墓   右が正室の美賀子の墓

徳川慶喜の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人①)_c0187004_11345809.jpg

慶喜の死後、寛永寺は葬儀を一旦固辞し、激高した

旗本衆に詰め寄られて葬儀を執り行い、墓は、慶喜の

希望で神式で谷中に収められました。

中央には慶喜の墓、右隣には正妻の美賀子、

慶喜の墓の後ろには左右に側室の新村信子、中根幸の

墓がある。

慶喜は十男十一女の子沢山ですが、

多くの子供の母親が新村信子と中根幸の二人です。

寿賀(一色須賀と徳川慶喜): Mar - 海 - Umi

慶喜に一生奉公した須賀の墓もある

須賀の墓は、谷中の慶喜の墓の傍にあり、

何時までも仕えるような形で作られている。

尚、分骨もされていて実家・一色家の菩提寺である

中野の寺に納められている。

喜久子 久美子  母・美枝子  喜佐子  兄・慶光

2017年に4代目の慶朝が死去し、徳川姓を名乗る男子がいなくなった。  

慶朝をみとった姪の山岸百合子さんが遺言で「相続財産執行人」に

指名され、喪主として葬儀をした。

山岸さんの祖父は慶喜の孫で3代目当主・慶光で、

祖母は会津若松家から18歳の時に嫁に来た和子さん。

屋敷も隣にあったようで慶喜家とはお付き合いがあったようです。

喜佐子のブログでも紹介したが、喜佐子・久美子姉妹と一緒に

六天屋敷でローラースケートに乗ったり、木登りしたり、

かくれんぼで屋敷中を走り回った方です。

4代目当主・慶朝は母親の弟、叔父という間柄だ。

徳川慶喜家当主 徳川慶朝さん | PRESIDENT Online(プレジデント ...

慶朝は生前、徳川一門とほとんどつきあいをしなかったため、

参列者はわずか10人ほど。

写真家でコーヒー店を経営する方でもあった。

 

「当主として慶喜家の墓に入るのは叔父(慶朝)が最後。

私の代で絶家にすることになりました。

親族らも同意してくれた」と明かす。

今盛んに行われてる墓終いになる。