江戸時代の女性イラスト 美人画 火鉢で物思いにふける着物姿の

女は平仮名で十分というのが当時の考え方で、

裁縫を覚えていれば嫁入りには十分というものだった。

ただ、16歳くらいで嫁入りすると姑は30代というのも珍しくなく

中には先代の姑が50代でいて、しかも長生きの姑が居れば

3人姑というのもあったようです。

 

女は己を空(むな)しゅうして人に仕えるという、

犠牲と服従の精神を涵養する点に重きがおかれ、

女は大事にしてはおけない、

粗末に育てよということになっていました。

男の方は、大事にする意味で父親の厳しい躾をうけるのですが、

女の方は、粗末にする意味で、食物も、品は同じでも

男にはよいところを、女には切れっぱしをという風に、

余り物や屑をあてがわれることに慣らすのでした。


女は一段劣る生き物だと考えられていましたから、

同じことでも、男のしたこと、言ったことなら問題にしても、

女のしたこと、言ったことなら取り合わず、

大目に見るというところもあり、子供扱いで、何も知らせぬ代り、

台所以外のことには責任も持たせないのでした。
  
年寄りとかいっても、気散じに物見遊山や、

寺詣りに度々外出することもなく、趣味も娯楽もなしで、

ただ働く一方で育てられてきた人たちが多く、

一家にそういう姑が二、三人もいて、夫の弟妹や、

妾や妾腹の子供まで集まっているところでは、

若い嫁さんはなかなか骨が折れるので、

何を言われてもハイハイといっている一方の、

無抵抗主義にしつけておかれるのが一番でした。

 

反対に「男の子には玉を抱かせ。

女の子には瓦(かわら)を抱かせ」
とそのころはいわれたもので、男は指導者としての

能力と責任感をもつように、厳重にしつけられたものでした。

 

武士の娘の場合は、江戸ですと手習い所などがあったが、

地方では初等教育は、各家で教えるのが普通であり、

忍藩の藩士の日記でも男親や友人が教えていた。

今の埼玉県の行田付近の忍藩の藩士の尾崎は27才にして

隠居させられて閑なので藩士の依頼を受けて

子供の教育も寺子屋のようにして教育もしたりと

教養は世間に認められていたようである。

 

子弟に教えてる絵だが当人は引っ繰り返って本を読んでる

呑んでばっかwww 江戸時代の下級武士のリアルな暮らしを記した貴重な ...

この頃は,忍藩にも進修館という藩校はあった。

しかし、藩校に入れる前に平仮名・カタカナ・基本的な漢字などは

家で教えておくのが普通であり、主に父親がするのだが、

何かと忙しい親は友人に依頼して手習いをして学ばせた

 

旗本夫人の井関隆子は、父が亡くなった後、

兄から教育を受け、それが生き方に大きな影響を与えようである。

 

参考まで尾崎の普通の日であり、

いわゆる「け」の日の食事、普通の日。

反対の日は「ハレ」祭りなど祝いの日です

文久元年6月17日

朝 つみ入れ汁、昼 豆腐、夕同じ

6月18日

朝 牛蒡汁 、昼茄子漬、夕鰹節

6月20日

朝 茶漬け、昼 同 、夕同

9月3日

朝 な汁、昼 落とし玉子、夕 茶漬け

9月6日

朝 粥、 昼 玉子 夕 湯豆腐

9月8日

朝 葱汁 昼 里芋 夕 茶漬け

11月8日

朝 むきみ汁 、昼 鰯、夕むきににつけ

 

1月3日

朝 そうに、昼茶漬け 夕めざし、むきみ、数の子、酒6合

1月4日 

朝 茶漬け、昼 煮豆、夕 酒5合

1月5日

朝 菜汁 、昼 めざし、夕塩鰯、辛子和え

武士は食わねど高楊枝は本当?~質素だったサムライたちの食事事情

大体、武士の食事というとこうした例になると思われる

ちなみに風呂は家にあったが、入るのは日が明るいうちに

入っていたようで、これは暗くなると行燈などの火が必要に

なり金も掛かるからであろうと思われる。

湯屋は有ったようです。