江戸時代の障壁画

書院番といえば御小姓組と並んで両番筋と言われ

幕府のエリートコース、

幕閣の要人となるにはこの何れかに属する要があった。

ちなみに、これ等番衆には厳しい規則が有った。

その一つに、壁や障子に落書きをすると死罪ビックリマークなのです。

落書きで死罪ですから、如何に、多く悪戯書きが多かったかが

判るし、手を焼いていたのでしょう。

 

御小姓組は、最初、黒書院の西湖の間に有り、

その前に花畑があったので、(御花畑番」といった。

そして、大坂の陣の前後に紅葉の間に移ったので、

その時、御小姓組と名を変えた。

 黒書院

 

幕府の旗本社会での新人苛めは酷いものが有りました。

御小姓組・書院番といえば、両番筋といわれ譜代の名門の

血筋で幕府の高官は、これ等何れかの出身でした。

 

しかし、これらエリートコースでも新人苛めは酷く、以前に

城中での刃傷事件を紹介しましたが、今度は、

もっと陰惨な事件を紹介します。

いわゆる「うんこ事件」

 

番入り(役に就くと)すると、先輩の家を挨拶回りするのが礼儀です。

上司・同僚の屋敷を50軒くらい有り、わざと居留守を使うのも居て、

同じ屋敷を20回訪問した例もある。

全部回り終るのに2,3か月かかる。

  旗本屋敷長屋門

 

この挨拶廻りとか御礼の宴が気に入らないというので

大事件になったケースもあります。

天明7年(1787)御書院番番頭の3千石の水上美濃守で

番頭就任の寄合があり、同役の7人が集まった。

 

3千石といえば大身です。

将軍に謁見する時も単独で逢う身分であり、

寄合というクラスに属する旗本です。

 

水上は新任である。

城内勤務の時に、生意気な口をきいたとかがあり、

「あいつは生意気だ」という評判が立っていた。

 

そこで一同から芸者を集めての芸者寄合をやれと云われ、

芸者寄合といわれました。

やむなく水上は最高の料理を揃え、奇麗どころの芸者を集め

もてなした。

       芸者

ところが、それでも気に入らず、芸者に菓子が気に入らぬと

云って投げつけたのを切っ掛けにして総立ちとなり暴れ出す。

障子を叩き壊し、盃盤を庭に放り出す、鉢も香炉も将軍から

拝領の皿も庭石で割り、尻を捲って飯櫃にウンコをしたのである。

それを箸でつまみあげて、部屋中へ撒き散らした者もいるし、

小便を鉢の中にするのもいた。

もう座敷中、糞と小便で足の踏み場もなかったという。

 

世にいう「うんこ事件」です。

流石にこの事態を重く見た幕府は全員処罰した。

首謀者2人は、御役御免の上、差控え。

その他の者も差控えである。

 

そこで生まれた句が

座敷へは無用の礼も間に合わず

    小ぼり小ぼりと鉢へ小便」

 犯人が小堀河内守、

 

もう一人の大久保玄蕃頭は

水上で 垂れ流したる永田ばば

    浮名流れて尻がくるとは」

とても大身旗本のやる事ではないが、幕府は、

こうした酒の上の事については甘い処分をします。

こうした例は幾つもあります。

官僚化して硬直した体制は歪んでいたのです。

 

幕末、長州征伐として旗本による新たな将軍親衛隊が

組織され、その名も「奥詰銃隊」とされ、

亰へ進発する事になりました。

幕府の関係者がその隊を訪れました。

さぞかし、出陣となれば君の御馬前にて功名手柄せんと

多分そういう話でもちきりであろう思っていましたら、

案に相違し、亰へ行ったら、土産は、紅にしようか、

扇子が良いか、或いは羅紗、針がという話ばかりでした。

  鳥羽伏見の戦い

何百石取りの旗本でこの有様では、到底勝てそうもないと

思ったそうで、案の定、鳥羽伏見で破れたそうです 。 

馬にはのれないでと、もう戦う武士の集団ではなかったのです。