普通の口入屋には看板や暖簾に御奉公人口入所と
なってたが、こうした吉原のような特殊な所の口入屋
の看板はというと「ひとり奉公人口入所」となってた。
特殊というのはこうした口入屋の主人は岡っ引きが
勤めていて、もし不正な事が起きれば、岡っ引きの
特性を生かして捕まえるのが容易であったからだった。

奉公してる女性たちは、江戸近辺の地域から出ていたようで、
生麦事件で有名な生麦村の記録では、天保8年(1836)
村から8人の女性が江戸の武家屋敷に奉公してる
村の女性人口は560人なので8人というのは少ない人数ではない。
奉公先は御三家の一つの水戸家、大藩の仙台藩の名がある
奉公する理由としては屋敷で礼儀作法を習い,良家に嫁ぐことを
目的としたものであった
田安家に女中奉公した女性・みちは、再三、
家に金の無心の手紙を送ってます。
みちの給与はというと、年に金3分くらい、
今の金では、7万円くらいですから月収5,6千円
これは安いですね。
それにお仕着せ(制服)衣食住が付きます。
しかし、当時の下女の給与でも1両2分、
幕末には2両2分。
江戸城大奥の最下位の御半下といわれる御末でさえ
合力金といわれる金を2両、他に薪や炭、油代等も
貰っているのですから如何に安いものであるかは
判ります。
しかし、何しろご領主様に仕えるし、やはり武家屋敷の
奥奉公をしたというだけで、もう箔が付いて玉の輿に
乗れます。
手習小屋を開く時でも、大名屋敷で奉公したと
いうだけで娘を礼儀作法を学ぶには丁度良いと
思われ、生徒が集まります。
後の事ですが、みちは、屋敷で裁縫を覚え、
それを生業とし実家にも逆に仕送りが来る様になってます。
当時は、裁縫は出来るのが当たり前ですから、
身を立てるというとかなりの技術が無いで無理です。
従って、相当の物を身に付けたのでしょう。
当時は、みちのような三多摩地方の上層の
農民の娘が江戸城大奥や御三卿の屋敷に
下女中として多く仕えていました。
これは、口減らしではなく行儀見習いで行くのです。
しかし、奉公先でお付き合いなどで金を要するようになり
実家に金の無心の手紙をする
みちが家に送った手紙
「色々御用多様の御中にこのようの御用申上げ
山々恐れ入り、候へ共、私事金子にさし遣え、
所々に出かたも多く、まことにまことにこまりいり
まいらせ候御事、なにとぞなにとぞ
壱分二朱程戴きたくお願い申し上げます。」
2,3万円ほどです。
所々と有るのは、主人の供での外出をしたりして、
小遣いが無いというのである。
一分二朱だから一両の八分の三であり、
多額の額ではない
みちは、時々名産である青梅縞を送って貰っていて
青梅縞は帯地にも使われ奥女中にも人気があった。
それを送って貰っては、代金はいずれ送ると云いながら
送らず小遣いにもしていたようである。
いずれにしても奥奉公の給金では何を買うにしても
家の援助無くては無理でしょう。
もう一つの手紙は、やはりおねだりです。
ビロードの帯を、心やすき人から勧められ、
見たらあまりに物にしては安く、柄も好みだったので、
つい買ってしまった。
ところが値段は三両三分二朱であり、独力では払えない
家に援助を頼むのです。
自分でも、一両一分出すから残額を負担して。
というものです。
可愛い所があるじゃないですか。
「人のようにむへき(無益)に遣すてなぞは致し申さず。
みなみなのこり候しなに御座候。
私事、御蔭様にて一度も病気にて下り候事も無く、
ご奉公大切に致しお勤めおり候事、
なにとぞさよう思し召して候て、右の金子くれぐれも
お願い申し上げ候。
みなみな(皆々)かみのさしもの(髪)も10両、
15両なぞ出し候、しなを、宿にて整い貰い候へ共、
私事はお前様の苦労様遊し候所存じおり候。
いつまでも、この様にては御座なく、
人並みに揃い候とまたまた料簡致し、
その時は夏冬のお仕着せ物金子にて頂き
あなた様へ上まいらせ候つもりに心掛けおり候」
父の事をお前様と云うのです。
人のように無益に使い捨てではなく一生ものです。
私は一度も宿下りしたことも有りません。
一生懸命ご奉公しています
なにとぞそのように考えて頂き、帯の金はくれぐれも
よろしくお願いします。
同僚は、家からの金で10両とか15両の髪の差し物を
買ってもらってますが、私は父上の苦労を知ってますので
そんな事はしません。
何時までもこんな事ではなく、人並みに揃えば夏冬の
お仕着せも金で頂いて、
それは父様に上げるつもりです。
この辺は現代と同じで、友達はブランド品を
一杯買ってもらってる。
私はそんな事はしないで一生懸命に仕事してるんだから
それくらい買ってよ!
こんな感じですね。
何しろ奥奉公は金が掛かったようです。
今の埼玉の名主は、尾張徳川家に奥奉公した娘に
毎年150両仕送りしたという。
しかし、相当な金持ちの家ですね。
八王子出身で江戸城大奥に奉公に出た藤波という
女中も愚痴をこぼしてます。
藤波の手紙では「たひたひの火事にあひ、
誠に仕合あしく、
それには色々の付き合い多く金子の心懸けなぞは
少しも御座無」とか、
「ところどころかの御宿より々参り」とあり、
それぞれの女中の実家から、御見舞いが有り
それの御返しが又大変であったようです。
女中同士の付き合いが大変であった様子が見える。
藤波が上司への贈り物や同僚との付き合いに
多用したのが、故郷の黒八丈でした。
八丈島の黄八丈が有名であるが、その関連であると
思われる。
それを実家に細かく指示して頻繁に送らせている。
着物の裾や袖口、羽織などに使われたので、
糸、端切れ、反物である。
「たひたひの火事にあひ」とは、
江戸城の火事の事なのでしょう。
江戸城は頻繁に火事に遭いました。
そして火事の後では、慶応元年(1865)の手紙では
「狭い部屋に6,7人押し込まれて、それぞれから
色々な贈り物が来るので御返しが大変」と嘆き、
私にはお返しする物としては黒八丈しかないと
嘆いている。
火事の為に、部屋が足りないために、
大勢で住んだでしょう
この大火以降は、大奥は予算を大幅に減らされ
昔日の面影を無くし、こじんまりとしていきます。
年間予算22万両を18万に減らされれば
そうなりますね。
宿下がり
場所は霞ヶ関


