吉宗将軍就任

徳川吉宗の八代将軍就任の様子(『旧徳川八代将軍宣下之図』)の ...

享保元年(1716)紀州藩主から8代将軍に就任した吉宗は

幕府財政を立て直し、又、権現様の時代に引き戻すことを

目標にした

そのため増税と質素倹約などの幕政改革、新田開発、

目安箱の設置などの享保の改革を実施した。

幕府の財政に直結する米相場を中心に改革を

おこなったことから米将軍とも呼ばれた。

 

その結果は、農民を苦しめたが、享保6年(1721)から同16年(1731)まで、

年平均にすると米で約3万5,000石、金は12万7,000両という黒字を出し、

江戸城の金蔵に100万両を貯めこんだ。

 

上げ米の制も使った

これは、大名に100石につき百石の米を幕府に献上し、

その代わりに大名の参勤交代で江戸在府の期限を半年

短縮するというもので、大名の江戸屋敷で消費する米が著しく

減るというもので、これによって幕府の財政も持ち直したが

それくらいでは財政が良くなるものでは無かった

 

他にも質素を旨として大奥の経費削減を図った

幕府の費用は10分の5に、大奥は3分の2に減らす

手始めの50人の高級御女中を追放、次いで民間も祝儀・

不祝儀を減らす、料理の数まで制限し倹約令を発した

「いかなる大身にあっても2汁6菜を越えるべからず、

尚、香の物は右の数に入らず」

 

足し高制を用いたことにより人材も出てきた

勝手掛の老中・水野忠之、松平乗邑、町奉行としてよりも

行政家であったとも思われる大岡越前、

60歳の地方役人の井戸平左衛門、農政の田中丘隅、

パナマ運河より148年前に閘門式運河を完成させた土木の天才

紀州の井沢弥兵衛などがそうである

名所江戸百景292 第96景 堀江ねこざね 江戸川閘門の風景 ...

吉宗の行った享保の改革は最も成功した改革と言われ

後の幕府の政治家にとっての手本となった

吉宗が晩年座右の銘として寝室の壁に貼ってあったという

言葉がある

1.掟を怖じよ、火を怖じよ、分別亡き者に怖じよ

1.少なることも分別せよ、大きな事とて驚くべからず

 

しかし、将軍吉宗の緊縮政策と生き苦しい風儀粛清に

真っ向から反対する大名が居た

御三家筆頭・尾張徳川家61万石の藩主の宗春でした

これには、宗春が将軍になれなかった恨みもあったに違いない

6代家宣の遺言では、余の後は尾張吉通に」とあった

 

しかし、新井白石らの反対により僅か4歳の家継が7代将軍の

座に就いた

しかし、4年後、7歳の家継は病死する。

今度はと宗春は思ったに違いないが、意外にも8代将軍の

座は紀州の吉宗であった

しかも尾張徳川家は6代家宣から次代の将軍へと指名された

4代藩主の吉通は25才で急死、次の藩主の五郎太も就任後

2か月後に急死、次の藩主の継友も麻疹で死去だあるが、

毒殺という噂もあり、実際に、「御畳奉行日記」の中でも

朝日文左衛門は「行商人に身をやつした間者が尾張屋敷の

付近を探索」と記されてるように、こういう噂が名古屋城下で

広まっていたらしい。

 

文中の吉通には逸話がある

江戸藩邸での出来事が有ります。

簡単に外にも出られないので中で寒中水泳をしようとしたのです。

 

用人たちは兎も角座敷に囲いを作り、殿様に泳いで貰ったが、

途中で水が冷たいと不機嫌になる。

寒中水泳だから水が冷たいのは当たり前だが、

バカ殿さまには通じません。

 

日記では文左衛門は、駄々をこねる殿様も殿様なら、

それを聞いて温水を作り御機嫌取りする方も

可笑しいと怒るのです。

 

それで大金800両を掛けて温水プールを作ったのです。

大きな釡を8つ付けて湯を沸し薪を大分使ったという。

しかし、1回使うと、次はプールに隙間が出来使い物にならず

800両懸けたものもあえなく無駄になってしまった。