曼荼羅華のことなど: 壺中山紫庵

薬草としての「チョウセンアサガオ」 は,江戸時代の医師・華岡青洲が

乳がん手術の全身麻酔薬の原料として使用したことが有名です。

水戸藩の名医として知られる弘道館医学館教授の本間玄調は,

華岡青洲に学び、帰郷後,水戸藩で乳がんの手術に成功し,

後にその麻酔法を改良させた

 

これ以降は、外科などの手術の際は、多少使用されたようで

当然ながら痛みはかなり違ったようです。

曼陀羅華 | きまぐれ精神科医の独り言

(御定書」では、若し、毒を用いての殺人の場合は

「市中引廻しの上獄門である」

従って、効能有として、様々な薬が売り出され、悲喜劇が起りました。

 

実際に大名の毒殺ではという事件もあります

元禄時代、尾張徳川家の話です

藩主の吉通がある夜、突然不明の病で呆気なく死んでしまった。

将軍の後継にも名が挙がってました

 

25歳の若さでした。

近習の話では、夜更けまで歓談していたが、俄かに吐血し(御絶息」

医者が駆けつけた時には、もう息は無かったという。

 

幕府老中は、吉通危篤の報を聞いて症状を尋ねるが、

使者にも判らないから要領を得ない。

幕府医者も藩邸を訪れて医者に聴くが、変が生じるとは思いもよりません

ただそれだけであり、「只今ご臨終なられ候、御頓死」だという。

これを聞いた幕府医師「汝、胡乱な言を吐くや」と睨んだ。

 

幕府医者は「凡そ大名の家に頓死など無い。

御側去らずの医者が詰めているからだ、その時は、即座に手当を

講じる故に御絶息に至るほどの脈が未然に分らぬわけが無い。

死相を見ればかなりの時間が経っているのが判るのになぜ隠す。



立腹した医師が隣室に行くと、客膳が運ばれてきた。

見ると膳には魚の吸物がついている。

医師は、それを見て、此の節、かような吸物を給うべきに非ず」

といって憤慨し帰ってしまった。

 

ともあれ、元禄御畳奉行日記にもある様に、死を巡っては黒い風説が

乱れ飛んでいた。

 

1つは、藩主が急変したのは新座敷で、そこに居合わせたのは

寵臣とその妹だけで、驚いた寵臣は「このようなところで

御絶息為されては、我ら兄弟そのような誹謗を受けるか」と云って

無理やり御座のままで運ぼうとした。

 

吉通はあまりの苦しさに「ああ、苦し、これにて休まん」と云い

給ひけれども、強引に運びだし、御座の間まで運んだ。

 

そして、冷酷さはこの兄弟だけでなく、御座の間で絶命した主人を見た

家来衆が、これを好機として、部屋の中の物を我先にと盗んだという。

 

しかも前日には亡くなった吉通が主治医に「殊の外、気分が悪し

汝は我を殺しはせぬかと」毒殺に怯えて聞いたという。

 

尾張藩にも毒見役が居ました

名は宗八、悪名が付けた仇名が「筍奉行」

意味は、斜視でいつも藪を睨んでいるから、筍の番なので筍奉行。

云うまでもなく毒見役の仕事は、次から次へと出てくる料理を

好き好きに関係なく食べなければならない。

 

宗八という武士の登用は妙な事からだった

事件が起きた場所は、禁制である藩主の御漁場でした。


禁制の場所で投網を打っていた武士が居たのです。

温厚な台所頭は、咳払いをして注意を促したが、却って、煩いと

怒鳴り唾を吐いたのです。

怒り心頭になった頭は、禁制の場所でするとは言語道断と

向かい合った。

ところがこの武士は、剣と拳法の達人であり、膝の上に置いた石を

手刀で撃つと砕け散るという技もあり、そして必殺の武器である

「鼠落し」の術も持っていたのです。

 

この術は、鼠を睨み落すことが出来る術で、或る大名家の事だが

鼠が大変憶いて困っている時聞き、早速、術を披露した。

その結果、米俵の上は気絶した鼠で一杯になったという。

ところが落ちが有って、あまり長時間やっていたので、

目の玉がひっくり返って其の儘になって、自分も倒れたという。

 

さて、この達人を前に向うが、勝負になりません。

そこに駆け付けたのが、毒見役の宗八でした。

相手の武士を咎めての激論となり、その結果、三日後に名代として

決闘をする事になりました。

しかし、時間が経つと冷静になり、自分が武術には全く自信が

無い事に気付いたのです。



 

その日から宗八は勝つ手段を考えて、又、宗八を助けようと

友人たちが大勢駆けつけてきた。

そこで編み出された作戦が有りました。

必勝の作戦でした。

 

当日、決闘に行く宗八の姿は珍妙部類の格好でした。

ばっちょ笠に洗い晒しの筒袖の上着に軽さん、首に頭だ袋

革の足袋に草鞋を穿き、腰には小脇差という姿だった。

 

広場に行くと、端の銀杏の大樹の根本に立った。

ここなら寺の土塀が後ろを守ってくれるからである。

 

相手の武士が姿を現し、刀を抜いて宗八に向ってきた。

すると、宗八は九座村の中に隠しておいた魚籠を

10歩の距離に近づいた相手に向って、或るものを投げつけた。

 

刀で切り払われた魚籠の中から出てきたのは、数匹の蛇で

頭上から蛇を浴びた相手は悲鳴を上げて気絶した。

 

そして、宗八は刀を拾い、その刀を上司の台所頭に土足で踏ませ

更に、土に突き刺した。

このれで面目を失った武士は、その夜、名古屋を出奔した。

 

実は、相手が大の蛇嫌いというのを調べて、これで勝てると思い、

数日間友人に頼んで蛇を捕まえて貰ったのです。

 

相手は「足高くも(蛇)を悪む」とあり、実は前の仕官先を

しくじったのも蛇の所為だったのです。

 

宗八は元は、九州日向国内藤家の家臣でした

夏の夕方の事でした。

朋輩が悪戯で荒縄を「ほら、蛇だ」と云って放ってきたのです

しかし、それを蛇だと思い込んで気を失い、後でmれが縄と

知らされ激怒した彼は悪戯をした相手を斬殺したのです。

 

しかし、宗八のこの活躍は、藩主継友の耳に届き、喜んだ

継友は御目通りを許し、蛇代として加増40石、そして蛇紋を

与えた。

更に御褒美が有りました。

継友寵愛の側室を嫁に与えたのです。

 

御畳奉行日記では「今日、宰相様御前番粟飯原宗八、

御意にて女房賜る。

この女、顔色好きによりご奉公に出、御側に侍りしに

今日粟飯原氏に給わる。

衣服50有、金拾両来る」

 

拝領妻である。

現代では、何かと思うでしょうが、当時は大変名誉とされていて

拝領する場合、羽織よりも着物、着物より肌着と、肌に近いほど

貴いとされていた。

ですから御寵愛の側室を下賜されたのは最高の栄誉であったのです。

 

彼の家の家紋が変わっていました。

「蛇紋」なのです。

2匹の蛇が互いに尻尾を飲みあって円環を作っている紋です。

西洋の「ウロボロスの蛇」に酷似してる。

  ウロボロスノ紋

 

元禄のころの大名は、後世のように決まっていたのではなく、

かなりの分量で副食の品数も豊富で、鯛を食べるにしても

一口食べると、直ぐ下げられ、代わりが出てくるほど驕っていました。

 

ちなみのそのメニューです。

本膳 

   膾牛蒡、小鯛ふとにあげ物、御汁こまこま、ご飯

二の膳

   御汁は鷹、焼鳥焼鮒 香物

三御膳  

   海老ささみ、御汁鯛

 

これに相当量の嗜好品・副食品がある。

 

毒見役は、御台所から運ばれた料理が御膳立の間で盛りつけされ

御前部屋で毒見をする。

 

毒見役を拝命して最初の半年は、あまりの食事の豪華さに

我が身の果報が信じられなかった。

それが段々日が経つにつれて、毎日のように押し寄せてくる御馳走の

数々に圧倒され、その味気なさに砂を食べているように

なってきたのである。

 

まして、それだけならよいが「徳川家の儀式である「嘉祥の日」

などは最悪である。

毒見役・宗八の嫌いな甘いものがどっと押し寄せて来るのである。

 

伊達仙台藩の毒見役も大変な思いをしました

毎日、牛乳を飲ませられた。

今では珍しくもなんともないが、当時は牛乳を飲むと牛になると

言われて忌避されたものです

何故飲むようになったかというと、水戸徳川家藩主の斉昭に

よってである。

 

大変な子煩悩の斉昭が子の慶喜に出した手紙でも100通以上で

内容は身体によいから黒豆を食べなさいとか、

牛乳を一杯飲みなさいとかきめ細やかで、

愛する雌目が娘が仙台藩伊達家に嫁入りした時は、

娘に牛乳を毎日飲ませるために嫁入り道具?に

牛を加えて連れて行かせ、やむなく伊達家も牛小屋を作り、

毎朝、毒見役は死ぬお思いで牛乳を飲んでいたといいます。

斉昭から慶喜への手紙 125通