数寄屋橋

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7月13日

60年前に亡くなった川村の両親の石塔・戒名・お位牌を

清厳寺に頼み付け直して貰った。

本来であれば、本家でやるべきことですが、本家は小普請入りで

それどころではなく、川村が代わりに遂行したという事です。

普通なら認められないが、相当の寄付を寺にしたのでしょう。

地獄の沙汰も金次第です。

 

後年,庄五郎(修就)が記した家譜によると父・新六修常は、

「享保元年4月、御本丸へ8代吉宗入らせられ候節御供仕り、

御口の者相勤む。

14年8月御天守台下御庭番勤む。

宝暦8年5月26日病死、赤坂一ツ木町浄土宗清厳寺に葬り

申し候。

法名「法厳院傳譽聞節良昌」

院号がついてなかったのを付け直して貰った。

 

 屋敷内に勧請した稲荷社 川村の手書きである。
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9月15日

酒井雅楽頭参勤に付干鯛1折、金500疋頂戴。

 

10月5日

父の50回忌供養を営んでいる。

戒名は、「聴受院法譽諦音道宜」俗名・川村新六英政 45歳死去

浄土宗です

川村が10歳の時、亡くなっている。

次男の川村がこのように立派な法要を営み、

父と兄に贈号できたのも偏に頂戴物の

多いお役に付けたからです。

 

10月13日

清水様へ年始暑寒の御挨拶に伺う時、手札を出せば直ぐ

御用人と面会できるように掛け合い、そのように話が付いた。

それまでは時間と手間がかかったのでしょう

 

11月20日

明楽家に嫁いだ次女の唯が、女子出産「わくり」と命名。

  眉剃り  女性は子を産むと眉を剃ります
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12月2日

さる文化13年に御菓子御仕立て砂糖種物を取り扱い

骨折りにつき、同役3名とも銀7枚づつ頂戴。

12月

頂戴物が並びます。

御賄頭として金2枚、表御台所頭として金2枚頂戴。

田安・一橋家から白銀、金を頂戴。

献上の御箱肴を頂戴。

投網の雁を同役3人へ1羽ずつ頂戴。

清水様より白銀3枚頂戴。

貞章院様より金300疋頂戴。

尾州・紀州様より紙頂戴。

小石川御守殿より金200疋頂戴。

浅姫様お引き移り御婚礼済み、皆、子餅取り扱いにつき

松平越前守より白銀3枚と交肴1折を頂戴。

 竹橋門
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文政3年(1820)

川村60歳。還暦です。

18歳で召出されて、今や、子も召出され家禄も合わせると500俵になった。

問題は、健康である。

痔疾は鳴りを潜めているが、胆石が度々暴れている。

この事が心配である。

 

幕臣も高齢化社会になっています。

寛政六年(1794)当時、70歳以上で要職に就いている旗本が34人いた。

戦の時に将軍の前を守り疾駆するべき御旗奉行が最高齢で91歳でした。

従って、まだまだ隠居できません。

というより、幕府は正当な理由が無い場合は、70歳以下での

隠居を認めなかった。

これはどのような理由であったかは不明である。

ちなみに、親藩である尾張徳川家は60歳、紀州徳川家は50歳が

定年の内規がありました。

 

細かいようですが、隠居相続の時も大名と旗本とでは用語が異なります。

大名の場合は「封を継ぐ」「家督を継ぐ」とし、旗本・御家人の場合は

「家を継ぐ」となる。

 

その時に泊った旅籠と食事の明細が記してある。

「奥州紀行」による。

仙台・小幡屋  旅籠代200文

ひずめ茄子・大根に鮭子汁・黄菊・鰹の焼物・鮭の潮煮・香物

松島・扇屋  150文

汁芋幹・平里芋と豆腐の味噌煮・隠元とささげの白和え・塩イシモチ

香の物・2の膳はも

大原 百姓七五郎

米代28文

鯖の干物2枚・汁

 御油宿  東海道53次 広重

腕づくでも旅籠に連れて行きます
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奥州道は東海道や中山道のような街道に比べると、旅籠などの整備が

遅れていた。

東海道では、この頃、1泊2食で100~300文であり、競争が激しく

サービスを競い質も向上した。

のんびり暮らす隠居ではないが、自分の遣りたいことが出来た、

羨ましい人生であったでしょう。