江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.196「食事作法」
大奥は男子禁制とは言いながら 御三家や 女中たちの近親で

9才までなら大奥には 出入りできました
幕末 川路聖謨の娘が大奥にいて そこに幼い甥たちが

訪ねていった記録も残っています

 

嘉永4年(1851)黒船来襲の1年9か月前です。

川路は左遷された奈良奉行から大坂町奉行へ異動があり、

江戸に残しておいた孫の太郎・8歳と敬次郎・6才を伴い

妻の待つ大阪へ行こうとした時に、奥女中であった川路の

娘・宣が子供を遊びに寄越して欲しい旨の手紙を川路に出しました。

その頃、娘の宣は、悩み事が有ったので、川路は不憫と思ってか

孫を大坂へ行く前に江戸城大奥の娘の下へ行かせたようです。

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流石に緊張した2人はこういう会話をして女中らを爆笑させたという。

兄さんこんなところ上がりて叱られはすましや

是に応えて兄曰く

あの坊さんが案内する故来し也。

悪くは坊さんか縛られるなるへし

坊主と言っても男ではなく中年寄という大奥独特の職制で

経験豊かなお局のようで御台付きですから中々力はあります

 

或いは、腕白であったという弟の敬次郎は障子を開けて

「川崎敬次郎也」と力んでみせ、これも女中たちに大いに受けたという。

特に、右筆筆頭の嶋沢は「殊に太郎を愛して」八丈縞の反物1反

呉れたほどです。

勿論、帰りにはお土産で一杯でおもちゃも沢山あったそうです。

 部屋方
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そして、時の実力者の上臈年寄の姉小路にお菓子を貰い

早く帰りて御小納戸に御成り候へ」と声を掛けられた。

姉小路は早く大きくなって将軍の世話が出来るようになりなさいと

励ましたのです。

女の魔境】江戸幕府が抱えた秘密の世界「大奥」の年間行事を浮世絵で見 ...

大奥の権力者の姉小路は12代家慶の死後は

大奥を退去し町に住んだそうです。

明治になって老年の姉小路を見た少年が居ました。

両国の回向院で行われた偉い坊さんの説教を聞き

に来ていたのです。

まだ、僧侶の見習いであった少年がまじかで見た。

「容貌もなかなか美しく、威厳も備わっており品格も良かった。

頭は剃ってるのに青黛を塗ってるのか真っ青である。

顔は白粉の厚化粧で中々若作りだった。

歯は前に押し出て、いわゆる乱ぐいになっている所は

60以上の老人たることを確かに見ゆる」

 

大奥仕込みの白壁づくりですね、未だ塗りたくっていたのです。

厚化粧で隠していたが、流石に老いは隠せなかった。

腰元を2人連れていたという。

相当貯め込んで引退したのでしょう。

 

更に少年の鋭い遠慮のない観察は続きます。

「いかにも疳癖が強そうで始終肩を動かし、口を動かしていて

誠に落ち着きが無かったが、いまさら思うと中々偉そうな女だった」

 

もう1つ裕福であった証拠に、着た着物に飽きると屋敷の庭に

穴を掘って埋めていたという。

自分の垢の付いたものが世間に出るのが嫌であったのでしょうか?

 

川路の息子の息子たちは「いとかしこき御所」まで見る事が出来ました。

多分、御台所の御座の間でしょう。

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御座の間は、御台の応接間であり、式日には将軍が

ここで御台と対面し儀式を行う。

上段(30畳)、下段(20畳)、二の間(20畳)、三の間(12畳)からなる。

下段の西側には更に御小座敷(10畳)、御溜間(20畳)がある。

御小座敷は、将軍・御台が女中から御祝の詞を受けたり、

女中らが御流れを頂戴する所である。

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御台の寝所は「切形の間」である。

大きさは10畳、あまり大きいと落ち着いて寝られないのだろう。

御台所付中臈だった大岡ませ子によると、

御台所の寝所について述べています。

「御座所は、根太の隙間に紙が貼ってありました。

何の紙であるかはわからない。

床下には炭が敷いてありました。(脱臭除湿でしょうね)

他の部屋には勿論敷いてません。

湿気を払う為です。

 

御台所の御寝間着は白の羽二重、

帯は芯なしの幅の狭い緋縮緬。

寝所は切形の間で大きさは10畳、そこに中年寄1人、

中臈1人が御側へ、御番の中臈4人が御次で宿直した。

中年寄は、御台だけに付くもので、将軍にはありません。

 

大岡ませ子は、御台所の御寝所は、

オジョウダタミを敷いてその上へ夜具を出します。

御床畳

オジョウダタミの中は、パンヤを芯にして回りを真綿で包でる。

毎日運ぶのに重くは有りません。

午後4時頃出勤すると、直ぐ、御寝所を拵えました。

お上段はお障子囲いになってますので、

拵えておいても見えはしません。

 

この「おじょう」という事が当初分りませんした

或る時、宮内庁関係に勤めてた女性の本に載っていて

やっと分かりました。

「ズリ」もそうでした。

女中らが大奥で物を載せて運ぶときに使う橇のような形

絵でも出ています

布団は、水浅黄みたいな縮緬で、裏は鼠羽二重です。

下々のように沢山綿を入れません。

将軍家では、厚い物も薄い物も沢山作っておいて、

暑い時は1枚、寒い時分は何枚も掛けます。

寝具は、大奥で御寝なる時も変わりませぬ。

中奥にも大奥にも常に用意されています。

 

大奥でも事件が起こります

実は、この御台の寝所近くで男の侵入事件が有ったというのです。

信じられない事件ですが、これを記しているのは、水戸黄門の

腹違いの弟の松平頼元で「守山御日記」に記載されている。

 

寛文9年(1669)5月29日でした。

夜中、御城御奥方、御台様御寝殿に床の上に年40ばかりなり男、

夜半時分参居候を女中見付、御広敷御番衆へ申達、早速召し捕え

捕えられ尋問された男は、源義家の弟と名乗ったそうです。

結局、侵入経路は判らなかったそうです。

乱心者として処理されたそうですが、しかし、吃驚ビックリマークした事でしょう。

源義家といえば徳川家の掲げる源氏の有名な大将です。

奥州征伐で知られてます

お召し替え
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隣接して、大納戸があり、一日に5回着替る御台の

着物や小物が長持や箪笥に収まっている。

2つ有り、北は25畳、南は40畳ある。

 

御小納戸とは将軍の身近に仕えて食事や理髪などの

世話する係で、人数は40人位、頭取は3人。

500石高で家禄千石未満の者には役料300俵が与えられた。

 

小姓と小納戸は、小姓の方がやや格が上だが、頭取の方は、

小納戸の方が上席だった。

物の本によると「大いに威権ありて、1500高下され、

就中、御場係は別段権を握れるなり

と有るので、威勢が有ったようです。

御坊主といわれた最古参の女中にくまなく案内され、

御台所の部屋も見ました。

 

規則では、宿下がりについては春先に御年寄の許可を得ていた。

御目見え以下で、3年目に初めて6日の休みを取り、6年目に12日、

9年目に16日、それ以降は何年でも16日である。

 中央の門から奥が大奥御殿
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大奥の男子禁制の箇条には「宿下がりしなかったものは、

家族を大奥へ呼んで泊らせる」ことも可能でした。

男子は9歳以下、しかも、大奥のお年寄りに許可を貰えば、

2泊まで可能だったのです。

ですから、結構子供の声も聞かれたのかもしれません。

宿下がりのできる女中ですから、下級女中ですが。

但し、その後規則が変わり、宿下がりに拘らず可能になった。


また そのころの大奥年寄りは多い時には10人もの部屋子を
自分の部屋で 育てていたといいます
「部屋子」とは 後の「御中臈」候補ですね
小さい頃から 気をつけて わが子のように育て
この子が大きくなって 将軍に気に入られたら自分の身も安泰です。

ませ子は年寄・瀧山の姪で11才の時に部屋子になりました

働き始めたのは13才からで新人いびりの狸に驚かされながら

大奥奉公を始めた


でも さすがに「部屋子」は 女子だけではないんでしょうか
石翁には もう一つ 「かの翁には陰根なし よって女を好まず」
という 噂もささやかれていた。

この他にも 河内山宗春の事件に連座したとか
いろいろ 噂のタネになった不思議じじいですが、

水野忠邦の天保の改革で 別荘は打ち壊され 

その前後に 病死したらしい

 

隆子の日記では

不思議に身辺に女っ気がない

ある人から聞いたところでは、石翁は小さなころから家斉の

遊び相手で、或る時、家斉が石翁に木に登らせたところ

誤って落ちてしまい陽部に酷いけがをした

命は助かったが、成長しても男女の交わりを出来ない体に

なってしまい、それを知った家斉は格別の情をかけるように

なったという。