イザベラは今朝、新庄を発った後、私たちは険しい尾根を越え、

大変美しくて変わった盆地に出ました。

そこはピラミッド形の山々が半円形に連なり、しかも、その山々が

頂上までピラミッド形の杉の木立に覆われてるので一層

美しさが際立っているのです。」

薬師山~中の森~熊鷹森 / じえもんさんの金山町(山形県)の活動データ ...

麓には金山の町がありロマンチックな雰囲気の町で

正午についたのだが、1日か2日ここに滞在しようと思う。

伊藤が日光を出発してから初めて鶏を手に入れてくれたから

余計であった。

 

湿度の高い気候で私は木の弱った健康状態で1度に二日も三日も

気持ちよく旅行することは不可能だった。

又、2晩も休息できる健康的で静かな場所を見つけることは困難。

蚤や蚊から解放されることは不可能である

蚊は所によって数が多かったり少なかったりする。

 

蚤は避ける方法を発見した。

1枚の油紙を畳の上に6フィート平方に敷き、その縁に1袋の

ペルシャ除虫粉を撒く。

そして真ん中に私の椅子を置く。

すると私は蚤から解放される。

無数の蚤が油紙の上ではねても粉の為に無感覚となり、

容易に蚤を殺すことが出来る。

 

とにかくここで休息しなければならない

雀蜂と蚊に左手を刺されてひどい炎症を起こしてるから。

場所によっては雀蜂は何百となく出て来て馬を凶暴にさせる。

私も歩いてるときに人を襲う「馬蟻」に噛まれて炎症を起こしてる

日本人もよく嚙まれるが疵口を放置しておくと治りづらい腫瘍と

なることが多い。

 

この他に蠅も怖い。

見たところ無害であるようだが噛まれると蚊のように酷くなる。

以上が日本を夏に旅行するときの短所だ。

 

7月18日

噛まれたり刺されたりしたので痛みと熱で酷く、昨晩日本の

医師を新庄から呼んで来てもらったので嬉しかった。

 

全部、絹物の着物を着た中年の男を連れてきた

彼は三度地面に平伏し膝をついた。

いとは私が受けた災難をくどくどと説明したら、医師の男は

私の「御手」を見せてくださいといった。

注意深く観察し、次に「御足」を調べた。

脈拍を図り拡大鏡で私の眼を見た。

それから息をぐっと吸い込んで、大分熱があります。

と言った。

それから休息しなければならない。

それも私にも分かっていた。

 

男は煙管に火を点けて私をじっと見た

それから雀蜂に刺されて炎症を起こしてる所を触り、

かなり炎症を起こしてるといい、、手を三度叩き、

車夫が姿を現すと医師が羽織に付けてる白抜きの家紋と

同じ紋を金で描いてある黒い漆器の立派な箱を持ってきた。

 

その箱には金色の漆器の薬箱が入っていて、棚や引き出し

瓶までも備えてあった。

彼は洗い薬を調合し私の手に付けて手際よく包帯をし、

痛みが和らぐまで時々包帯の上から洗い薬を注ぐように

と私に言った。

 

そして全体を油紙で包んだ。

油を引いた絹布の代わりになるのである

それから解熱剤を調合した

これは植物性なので私も飲めた。

薬は湯を使って飲むことと、酒は1日か2日は慎むようにと

告げた。

 

私は料金はと問うた

彼は何度も頭を下げたり、息を吸い込んでたが、

50銭では高いでしょうかと言った

私は1円を取り出し渡した。

治療してもらい非常に有難いと思ってると伝えたが、

彼が余りに感謝するので当惑してしまった。

 

彼の名は野崎と言ったが、彼の医術は明らかに古いもので

父子相伝のスタイルであり、西洋医学に抵抗してるようだ。

もうひとつの学芸員室-病まざるものなし-医家の成り立ち

彼はクロロホルムは知ってるが使用されるのは見たことが無く、

妊婦の場合は、母子ともに致命的なものになると考えてた。

彼は漢方薬の朝鮮ニンジンや、犀の角、ある種の動物の肝臓を

粉にした物の薬効を信じてる。熊の胆でしょう。

 

彼は私に一角獣の角(麒麟)が入ってる小箱を見せたが、

それは同量の金と同じ値段がするという。

 

私は彼を食事に招待した。

2つのテーブルには色々な料理が並べられた

小魚から骨を取って食べる時の箸捌きは実に非凡だった。

そして、美味しいご馳走であると示すために、音を立てて飲んだり

ごくごくと喉を鳴らしたり、息を吸い込んだりすることは、

正しいやり方となってる。

私はもう少しで笑い出すところだった。

 

英国人医師 ウィリス

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幕末から明治維新にかけて日本の近代医学・医療の基礎を築き、

発展に貢献したイギリス人医師(医学博士)・外交官。

駐日英国公使館の外交官・医官として来日し、

東京の初代副領事になった。生麦事件をはじめ幕末の

歴史的重要事件で数多くの人命を救い、日本人医師に

実地指導をして西洋医学を広め、戊辰戦争で敵味方の

区別なく治療をして、日本に赤十字精神をもたらした。

 

アーネスト・サトウは、「これほど人情味のある医師はいない」と評した

しかし、ウィリスは優等生であったサトーとは全く違っていた

日本に来たのも病院の婦長のメイドに手を出してしまい

産まれた子供を兄に預けて逃げる様に来日したのである

しかし、サトーの言うように人情味厚く戦場では敵味方関係なく

助けた。

 

戊辰戦争と言われるが、これは慶応4年明治元年の干支が

戊辰であることに由来する。

生麦の後でもウィリスは戦場に行ってる

鳥羽伏見の戦いである。

幕府軍1万5千、新政府軍5千の大軍がぶつかった。

ここでも彼は敵味方に関係なく負傷者を救護した

その中には、薩摩の大山弥助、西郷隆盛の従弟の西郷隆道も

ウィリスに助けられた。

 

ウィリスの働きは西郷の従弟らも助けた縁もあり

薩摩との結び付が強くなります

しかも明治になると新政府は医学はイギリスではなく

ドイツを採用することとした。

実戦的な英国医学で多くの負傷者を助けたのにかかわらずだった。

失意のウィリスは薩摩に招かれこれに応じた

恐らく西郷の思いであったと思われる。

 

明治3年1月から医療を開始するが、

ここ鹿児島でウィリスは八面六臂の活躍をする

記録によると初年度1870年8月8日現在で外来患者3050人、

自宅診療患者110人、入院患者46人、総計3206人だった

 

毎日400人強の治療に当たった計算になる

当時の鹿児島の人らによっては大変恵まれたものだった

 

6月29日までの外来患者の症例で多い症例の上位10位。

1性病835,2眼疾患531,3消化器、肝疾患365、

4皮膚疾患260,5脳神経疾患158,6ハンセン病174,

7結核99,8神経疾患98,9泌尿器科疾患80,

10呼吸器疾患66だった。

 

ウィリスは開院の翌年の1871年に提言をしてる

酪農の勧め、産婦人科推進の願い、難産への対応策、

医学教育における解剖の重要性の指摘、そのための

遺体発掘の許可申請、牛疫への啓蒙、再度酪農の推進、

牧草地確保の勧告、梅毒専門病院の設置。

 

上記の症例から見ると問題は多く、栄養不良、難産、

性病の蔓延が挙げられ、ウィリスは鹿児島の主要人物に

会い意見を述べようとするが無視され続けた。

終始ウィリスをバックアップしてきた西郷はどうもこの辺は

病気、鬱病であったらしく適切な援護は出来なかったらしい

ウィリスは失意のうちに鹿児島を去り帰国した。