
24日は昼から吉原に出て頭巾にて白玉屋の前を忍び
大門に入る。
仲の町賑わし、新町辻より九郎助参詣、引き返して
又仲の町に帰る。
松葉屋瀬川

この瀬川という名は代々継承されて江戸時代に9人いたが、
その中でも殿様が見てる5代目瀬川は優れていたという
その他にも、2代、4代も又評判だった
この5代目瀬川は後に鳥山検校に900両を落籍されて
江戸中の話題となった。
寛政3年(1791)幕府は凶作による米不足に備えるため
江戸の地主に町入用を節約させて米の備蓄を始めさせた。
運営は民間で「町会所」と名付けられた役所は翌4年に
浅草向柳原の馬場に設置された。
運営資金は幕府が2度にわたって2万両を提供した。
会所は籾を貯蔵するだけではなく金も積み立てて
過剰資金で金貸しも行った。
20年、30年と経過するうちに籾の貯蔵も金も蓄積された。
会所も最初は向柳原だけであったが次第に増えて、
深川大橋向、筋違橋、霊岸島、小菅などに建てられ
文政11年(1828)には籾は17万石余、金は46万両にもなった。
之から30年後には籾は46万石、金は20万両にもなった
目的は貧民救済で困ってる者に米と銭を支給した。
大掛かりな支給をしたのが3例ある
享和2年(1802)お七風邪といわれた風邪の流行の時。
八百屋お七の小唄が流行してたのでお七風邪と言われた
享和3年(1803)4月から6月にかけて麻疹の大流行の時。
文化3年(1806)丙寅の大火といわれ芝車町から出火し
大火となった時。

火事の場合は米と銭だけではなく御救い小屋といわれる
仮小屋を建てて罹災者を救済した。
それ以外に病にかかってその日の暮らしに困ってる者も
救済した。
この際には事細かな取り決めがあった
独り者で30日以下の病気の場合は白米5升、銭1600文
銭6000文で1両
女房や子供など2人暮らしで、其のものは働くことが出来なければ
白米5升増し(計1斗) 更に銭500文増し
3人暮らし、4人暮らし、5人暮らし、病気なら30日以上、50日以上
ときめ細かく決まっていて、普通の年で1万5千人くらいが
利用してたという。
手続きの方法は、家主(大家等)が店請負人(保証人)を
同道し名主に願書を提出。
名主は願書の本人の家に行き病状を確認し願書に奥印捺印、
その願書を本人に代わって店請け人なり家主が町会所に
持参する。
そこで町会所の係が届が出てる名主の印と間違いが無ければ
米と銭を支給する。
尚、生活が苦しいと再度願い出るときは25か月が経過すれば
審査を厳重にするに及ばずとされていた。
実情に適応した制度であり有効であったようだ
一方で座頭金は高利でした。
3割であったようです。
しかも、天引きして渡されるのです。
金貸しは、盲人保護の観点から、利率に制限は無く高利であった。
一般の利率は、幕府が定めた利率は1割2分であり、
これは幕府お抱えの会所で借りることが出来る人だけであった。
座頭金で稼いで鳥山検校は20万両を貯めこんだと言われた。
その金で瀬川を落籍したのですから江戸っ子としては
堪らない話であったでしょう
花魁は江戸っ子にとっては雲の上の人です
もし、花魁の腰巻でも売ってたらすぐ買うこと間違いなし。
腰巻が頭巾になって身も心も温めてくれ、
憧れの花魁と身も心も一緒です。
「ふんどしが 頭巾に化ける 柳原」
