戒壇巡り

宅子らは供養を済ませて、今度は戒壇巡りです。
地下へ入る通路が有り真っ暗の地下の通路を廻るのです。
手探りしていくと、やがて瑠璃檀に安置されてる本尊の
下に独鈷様の金属の鉤が付いているというのです。
「そこは床の下のかたわらにかけはしごあり。
それより下りて暗き床の下を巡る。
真っ暗なのです。
前立本尊

それを触る事が出来ると極楽往生間違いなしと云う代物です。
皆は新しい藁草履(戒壇草鞋)に履き替え出発。
南無阿弥陀仏の低い念仏が聞こえる中、
前を行く人から順に右手で板壁の中ほどを擦って歩くように
と伝えられる。
ガチャリという音が聞こえ、久子の「まぁ、ありがたか」
と云う年に似合わない可愛い声が聞こえ、
宅子は思わず微笑む。
宅子も右手に全神経を集中させ、そして、宅子も触れました。
重量感のある金属で板壁のくぼみに掛けられていた
到頭、念願の仏縁を結ぶことが出来た。
「もらさじの弥陀の誓ひにまかせてん
露のこの身の罪重くとも」宅子
宅子らは三回廻ったという。
「たらちねのために手向くるともしびの
うちにも見まくほしき面影」宅子
この時使用した草鞋は、戒壇草鞋と云い、亡くなった時、
棺に入れると極楽往生できると云われた。
ですから大事に持って帰ります。

一旦夜のお籠りに備えて宿坊に帰り夕食と
風呂に入り再び寺へ。
人々が次々と集まってくる。
鐘の音を合図に扉は締められ、人は端坐し勤行が始まる。
「その夜は人皆御法の声とともに明かしぬ」
勤行が終わると休憩する人や、夜を徹して続ける人もいる。
「かく広き寺のうちに国々の人いくらという数を知らず。
夜も午前二時というころには。あなたこなた声を
立てて泣くもあり。
又、それを諌めるもありて哀れなり」
「亡き霊の目にもみゆらん人の
御法の声にそえて嘆けば」宅子
善光寺は全ての人を受け入れます。
「月影や 四門四宗も ただひとつ」芭蕉
無事に宅子らの善光寺参りは終りました。
有名な幽霊の善光寺参りの話がある
肥前・長崎の男、吉蔵は女房・子を連れて善光寺参りを
志したが旅の途中女房は患いついて遂に空しくなった。
よんどころなく吉蔵は2歳になる男の子を懐にし、
よろよろと善光寺に参った。
と、死んだはずの女房が形を表して子供に乳をやりながら
如来様の前に参って伏し拝み、やがて子供を夫に返して
ふっと消えた。
子供がよくせき気にかかり、如来様のご加護を頼みたい
一心であったのだろう。
聞く人は皆袖を濡らした。
その霊験談も刷り物となって売られている

宅子から6年後弘化4年(1847)善光寺大地震が起こった。
丁度御開帳の真っ盛りで善男善女が大勢で賑わってた。
被害もそれ故大きく、実に2500人余の被害者を出し
地震横死塚に葬られたそうです。
後日談です。
ところがこれ程の繁栄を見せた善光寺ですが
明治になると一挙に衰退します。
先ず寺領の千石を取り上げられます。
そして参詣客も激減した。
廃仏毀釈の影響でしょうか。
寺坊は内職をして生活していたという。
団体客も来ないので三十人以上の膳が無い所が普通で、
多くて20人の宿泊、大体が4,5人、一人というのも
珍しくは無く、皆歩いてくるので疲れ切っていて
着くと埃まみれであった。鉄道の開通は明治26年。
しかも、来るのは彼岸前後だけで夏冬は全然来ない。
江戸期の賑わいは何処へ行ったのかという有様でした。
それから講中作りに励み、昔から近江は善光寺信仰で
あったので働きかけて、鉄道運賃団体割引5割引きなど、
鉄道会社にホントに来るのかと疑われながら
働き掛けてやっと軌道に乗ったのが明治41年。
近江の草津の弁当屋さんが講中を作ってくれて400人。
今度行きますという、連絡を受けて山は吃驚して大騒ぎ。
歓迎の印として、善光寺の近くに遊郭が有ったのですが、
その楽隊を動員して駅まで行かせて歓迎したそうです。
この時も、この値段で大丈夫だね?追加料金は無いな?
という問い合わせが再三来たようです。
その後、是が口火になって復活し現代がある。