諸九尼の画像

女性で俳人の諸九尼という方が明和八年(1771)3月

松尾芭蕉を慕って「奥の細道」を京から奥州松島に向けて

出発してる。

女俳諧師。庄屋の妻であったが、旅の俳諧師と駆落ちし、

俳諧の道に進む。

旅をよくして、奥の細道を辿り旅行し「秋かぜの記」を書いた。

「行く春や 海を見て居る 鴉の子」

 

彼女が旅立ったこの年は、「数十年ぶりに大規模なお陰参りが

流行した年で「お陰でなぁ、抜けたとなぁ~」と伊勢を目指して

集団が春から目立っていた。

忽ち東北を除く全国に広まった。

大体60年周期で発生し流行した年を「おかげ年」という。

皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが

始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、

奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。

その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。

また、彼らは多く集団を作って旅し、のぼりや万灯を押し立て、

「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。

明和8年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、

宮川の渡し人数から見ても200万人以上に達したという。

 

日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を

用意しなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれた。

それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。

「おかげまいり」錦絵 樋田清砂氏蔵

江戸からは片道15日間、大阪からでも5日間、

名古屋からでも3日間、東北、九州からも参宮者は歩いて参拝した。

岩手からは100日かかったと言われる。

余りの大人数の為に関所などは手もつけようもなく

何もなすすべもなく通過を許したという

 

諸九尼は夫と死別してから髪を下ろし尼になった

旅に出たのは58歳、2人の男の連れが居て、1人は遍歴の僧で

以前に諸九尼と俳座をともにしたことが分ってるくらいで、あとは

全く分からない。

もう一人は飛脚屋で働いていた75歳の老人、荷物持ちとして

同行してる。

 

そして一行には加わってないが善兵衛という老人が居た

同じように俳人で大阪の飛脚問屋の主人で江戸大阪京は勿論

仙台など東国にも店を出して手広く商売をしてた。

善兵衛も東海道を往復すること70回余、諸国の街道については

有り余るほどの知識がある。

諸九尼の旅の行路を見ると一般の人が通らないコースを

歩いてる所を見ると旅慣れた善兵衛の意見が多く入ってるようである。

中山道六十九次 - Wikipedia

先ず前提として関所を避ける道を選択してる

京から東海道を東に進むが、このままだと今切の関所に

行きあたるので秋葉街道を選び進んだ

新居より4つ手前の宿場の御油宿から北上し鳳来寺から

秋葉神社に向かった。

箱根では出女に厳しいが反対に入女になると今切で調べたので

箱根では調べらしい調べは無かったからである

 

火事に悩まされた江戸の住民は防火の神である秋葉神社への

信仰が厚い為にこの街道は江戸方面から来る旅人である多くの

男性で賑わっていた。

この街道は鳳来寺から秋葉神社の12里ほどが山を分け入る難路で

しかも秋葉神社から遠州森町の間も雨が降ると三倉川から溢れた

水が街道に溢れ出すという厄介な道だった

 

鳳来寺から秋葉神社の道は日記によると「昨日の山路より険しく

深山木が茂って空も見えない

恐ろしいほど聳え立った岩間沿いに分け入ると蛭が梢から

落ちてきて足に吸い付き血を吸う。

その煩いといった事といったら無い。

その内に雨が降り出した。

こうなっては一歩も進めないと思うのだが、旅籠も無く

案内人の袂にすがって雨も涙も一緒になるまま行き、

神沢に着いた。

翌日秋葉山に詣でた」

 

この道は清野も宅子も同じような事を書いている。

こうして秋葉山から東海道掛川の宿に出て東に向かう。

東海道五拾三次之内 掛川 秋葉山遠望 | 歌川広重 | 作品詳細 | 東京 ...

しかも東海道に比べると11里余の回り道で見るところも少ない。

だから女性はこの道を通る者は少なかったが、関所の調べを

受けないで行くことが出来るが出来たからだった。

当時はどんな道でも必ず口留番所があったが、しかし、そこに

詰めているのは近在の百姓であり少しくらい不法であっても

物騒な武器を持ったものが追いかけてくることも無く、このような

道を武家の女性が先ず歩くことも無かったので女性への

調べは無いに等しかった。

上州西牧関所でも女人改めは緩かったので「女街道」と

呼ばれたくらい碓氷関所を迂回する女性の旅人が多かった。

地図3